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地域密着で取り組む住宅メーカー。
安定した経営と確かな家づくりを続け、
快適な住まいを提供いたします。
今年も残すところ10日余り、悲しいことばかりの一年間でした。
毎年自分専用の手帳を作成する。市販の手帳型のノートに線を引き、見開きで1週間
分の予定が分かり、メモができる余白のある手帳である。
過去の出来事なども毎年追加加筆してゆく。健康診断状態も過去数年分コピーし、
貼り付けている。
使い慣れているせいもあり、重宝している。
今年の手帳の2月からは、家内の病状の事が多く書かれてあり、心配したり希望を
持ったりしている。家内が危篤に陥った最後の時期の手帳に書かれいるメモと現実
の場面は深く記憶に刻まれており、鮮明に思いだされる。
いまだに、涙がとめどなく出てくる。
もっと医学的知識があったら、アドバイスができたのに、ネットで調べれば手が打て
たかも、近所のクリニックの対応がよければ助かっていたかも、後悔や反省、恨み
まで出てくる始末である。
去年の年末には、松山の兄宅で楽しい大晦日、正月を迎えれたのに、年が変わって
2023年、令和5年になった途端、悲しい1年間でした。
今年も兄宅に帰省する予定ですが、道中は一人旅、やるせない気持ちです。
小倉で一人正月を迎えるより、帰ってこいとの兄弟のいたわりに甘えようと思って
います。
私事で家内の逝去あり、仕事の業績も芳しくなく、おまけに常識で考えられない
仕事の中傷を受け、これらを全て180度好転させるようにしなければならない
来年になります。20年前、自分の意気込みだけで仕事にとりかかったことを
再現しなければなりません。
今年は自分の心の中、それも至って個人的なことばかりブログに書き、申し訳
ありませんでした。来年、どのような心の変化があるのか分かりませんが、少しは
楽しいことも書ければと思っています。
健康に留意され、希望に溢れた新しい年をお迎えください。
今年1年間ありがとうございました。 渡部 通
家内の逝去報告と新年欠礼はがきを郵送しました。
どの人も明るく元気だった家内の訃報に驚き、私へ励ましの電話や手紙を
頂きました。
50年前のお客様からもお悔やみをいただき、お礼の電話をすると声にならず、
かえって心配を増長するようなことになり申し訳ないと思っています。
私の私淑する、中村天風先生は、奥様が亡くなった時枕もとで大声で泣き、
その後は奥様の事で泣くことはなかったと言われています。
私などは全く逆で、日常の様々な場面で家内を思い出し、涙が溢れます。
帰宅した時には、玄関にスリッパを履きやすいように置いてくれていた。
毎日弁当を作ってくれた。私の健康を考えながら料理を工夫ししてくれた。
先日も、衣類の整理をしていた時に新しい肌着がありました。
肌着など必要な時に買うものと思っていたが、新しいのを買いおいてくれた
事で、彼女の優しさを感じ、また涙。
面倒くさいからまとめ買いして置いていたのかもしれません。
でも今の私からみると彼女の優しさになってしまいます。
全てが完璧主婦です。
古い友人には住まいも離れて会うことは少ないのですが、年賀状だけは送り続け
二人とも元気でやっていることをお伝えしていました。
年賀状だけの人も沢山います。でも、それらの人から激励のお手紙をいただく
のは家内の勲章だと思っています。
当時、お客様には家内を連れて挨拶に行ってましたから、ほとんどのお客様は
家内と私は一個の人と思ってくれていました。
家内もお客様に媚びる態度でなく、しかも失礼でなく、堂々と挨拶し、お話も
しました。この対応はなかなかできないと今でも感心しています。
昔は、社員を自宅に呼び、食事も一緒にしました。
支度は大変だったと思いますが、何か喜んでいたようで、社員との付き合いが
深まったのは彼女の功績と思っています。それが色々な場面で会社の団結を促し、
苦境を乗り越えられました。
本当に陰で私を支えてくれました。
今回のブログのタイトルを友人にしたのですが、結論を導くことができません。
古い友人の方々が私を励ましてくれることに感謝し、その人たちに御恩返し
をしたいと思っています。
世の中に大変な出来事が多発しています。
イスラエルとハマスのガザ戦争、ウクライナ戦争の続行…
地球温暖化とゼロカーボン運動
戦争は地球破壊活動、ゼロカーボンは地球存続活動。
私が考えていることは現実的にはできないと思うが、世界から戦争が無くなれば、
地球を存続させる運動は弾みがつき成功すると思う。
問題は現実戦争の即時停止と戦争の未然防止活動だと思う。
こんなことも考えながらも、今でも家内の事で頭が一杯である。
家内が亡くなって、時間を後戻りさせることできないので考えても仕方ないという
事は分かっているが、反省と後悔の日々である。
七日ごとの法要を行い、49日法要も松山で済ませた。行政への手続きは終了し、
生活してきた様々の処理は未了である。手紙などで気づくことがほとんどなので、
その都度やってゆくしかない。
物理的作業は多分できてゆくと思うが、心の執着心はスパッと切れないでいる。
思い出しては涙が溢れる。
楽しかったことも沢山あったはずなのに、最後の入院19日間の事が、かわいそうで
かわいそうで、守ってやれなった、助けてやれなかったことが思い出される。
入院初期は、自分のことより私の生活と体調を心配し、『犬の世話と食事が大変
だけど、頑張って、体力が落ちるといけないので食事をきちんと取って』
その一日後からは長い言葉はしゃべれず、『ありがとう、ありがとう』の言葉
ばかり。
最後の数日はのどの渇きから『水、アイス』『水、水』。
誤嚥があるから飲ませる事ができない。口に含ませるだけ、何もしてあげることが
できない。
看護師から『しゃべることはできませんが、聞くことはできますから耳元で話した
り、歌を歌ってあげて下さい。』妻への思いを率直に語り、歌も沢山歌った、
彼女に届くことを信じて。
入院してから、口からは食べ物は補給できず、点滴栄養剤だけであった。死の
数日前『ごはん』と言った。
私は『ごめんね、ごめんね』としか答えられなかった。
何もしてやれない、助けてやれない、守ってやれない、
健康診断に毎年一緒に行けば、行っていれば助けられた。行け、行けというだけ
で連れて行かなかった。
簡単な行動である。これをしなった。後悔だけである。
いつの日か、この辛い想い出から楽しい想い出を思い出す時になればと願っている。
耳元で一番沢山歌った歌は『母さんの歌』だった。
♪母さんが夜なべをして
手袋編んでくれた
木枯らし吹いちゃ
冷たかろうて、せっせと編んだよ
こんな歌だった、家内の事をお母さんと思っていたのかもしれない。
今日で家内が永遠の旅に旅立って1ヶ月になる。
仕事を始めれば、悲しさ、寂しさも紛れるとの助言も頂き、以前通りのスピードで
仕事しているつもりでいる。
でも家庭、家族の寂しさは仕事で埋めることはできず、仕事と家庭は別々の領域
なので、なかなかうまく調節できないでいる。
多分もう少しとか、もっと多くの時間とか、が、かかるのであろう
幸い、千葉から妹が応援に来てくれているので、心理的にも、家事の事でも
助かっている。
家内の着ていた服などの整理もしてもらっている。
箪笥の整理をしてもらっているときに、家内から私への手紙が出てきた。
平成16年2月に書いていた手紙で、封をしている。
書いたのだが、渡しそびれていたのであろう。それが今出てきた。
19年前の手紙。
出だし標題に 通様 と書いてある。
次の行に、今年の5月で結婚31年目になります。
あっという間の月日の経過でした。
その後、二人で行った、ハワイ旅行、香港旅行、ニューヨーク旅行、ラスぺガス
旅行、楽しかった思い出が書かれている。
私への感謝の気持ちが述べられ、また自分(俊子)と結婚できたことを喜んで
くれたら、うれしいと書かれてある。
『私と生活することで幸せを感じくれることがあったら嬉しいです』
こんな言葉が書かれている。
私こそ、俊子と結婚でき、一緒に暮らせたことが最高の幸せでした。
二人の存在はどちらか片方で成り立たず、二人がいたからこそ充実した、豊かな
時間を持てた。俊子は私がいたから存在したと書き、私自身も俊子がいたから
仕事にも、プライベートな生活も生き甲斐を感じた。
『照れくさいが、私の事を愛している。』と書かれてある。
好きなのはお互いに分かっているが、こんな直接的な表現は初めて。
私は、誕生日プレゼントする時など、直接的表現は度々する。
彼女からは今回の手紙が初めて。
嬉しいが、悲しい。亡くなった後に手紙で伝えてくれるなんて。
最後に、身体に気を付けて、仕事頑張って下さい。大きな夢に向かって
一歩一歩前に向かって進んでください。と結んである。
19年前というと、今の会社がどうなるのか、方向も見えず、ただ頑張るだけの
時代。
私への励ましの手紙だったのか、何か心に期することがあって書いたのか。
今となっては、知る由もない。
今日は朝5時半に目覚め、犬の散歩に出た。
東の空に、薄い三日月、三日月の右上に明けの明星、
何を見ても悲しく、寂しくなる。
8ヶ月間の闘病生活を経て家内が永遠の旅に旅立った。
悲しくて、寂しくて仕方ない。言葉を出すと涙が出てしまう。
家内の事を言っているわけでない、病気のことを言っているわけでない
普通の日常会話なのに、涙声になる、涙が出る。言葉が嗚咽に変わる。
寂しくて、寂しくて、仕方ない。
75歳であった。最近の実年齢は、7割掛け、8割掛けと言われているから、
7掛けならば53歳、8掛けならば60歳。まだまだ二人で旅行にも行けた
はず。
明るくて、理知的で、気遣いと感謝の気持ちを持った私には過ぎた家内で
あった。料理も上手であった。何よりも私の仕事の最高の理解者で、最大の
応援団であり、たった一人の仕事の相談者であった。
仕事の構想を語り、手順を述べ、組織、体制までいろいろ話した
仕事のやり方が自分の独りよがりになっていないか、チェックするために
仕事について話した。彼女の反応は非常に参考になった。
家庭に仕事を持ちこまないほうがいいのかもしれないが、私は全く逆で、
彼女も仕事について関心を持ってくれた。
その相棒が突然いなくなった。
これからの日常がどうなるのか予想がつかない。2歳になる愛犬がいるので
その面倒をみながら、日常を少しづつ受け入れていかないといけないのだろう。
何故、彼女の癌に気づかなかったのか?
毎年会社では健康診断が義務付けられている。家族の健康診断の手配もして
くれている。
毎年、健康診断に行くようにと言ってきた。彼女は健康に自信があったのか、
忙しかったのかここ十数年受診していない。
でも、近所のクリニックでは2か月に一回のペースで血液検査を受けている。
胃潰瘍の薬も処方されていた。
胃潰瘍の進化系が胃癌だと私は思っている。
臨終の数日前、健康診断に行け、行けというだけで、自分が連れて行かなかった
ことに気づいた。
健康診断を二人の年中行事に組み込んでおれば、早期発見、治療もできたのに、
悔やまれてならない。
こんな簡単なことに気づかないなんて最低の夫だ。死ぬ直前に分かるなんて
冷たい男だ。
最後の抗がん剤治療を受けた時、血液検査の結果を見て『検査結果はなんとか
基準をクリアしているから、抗がん剤を打ちましょう』と主治医が言った。
抗がん剤の医者の所に行き、2次診断を受けた時、『膀胱に炎症反応が出ている。
主治医は何と言っていましたか?』「数値はぎりぎりだが打ちましょう」と
言ってました。『…そうですか。それでは打ちましょう。』
あの時に体に炎症反応が出ているので今回は中止しましょうと主治医が言って
くれれば、悪夢のような19日間は来なかったかもしれない。
緊急入院して点滴だけで命を永らえた19日間、辛かったと思う。
『水』『アイス』『ごはん』と言った言葉が頭から離れない。
こんなことすら叶えてあげられない。苦しくて仕方ない。
書くことで少しづつ日常を創ることができるのではと思っている。
もう少し、自分が頑張らねば、家内のためにも。