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地域密着で取り組む住宅メーカー。
安定した経営と確かな家づくりを続け、
快適な住まいを提供いたします。
妻が亡くなって1年になる。8月25日に緊急入院し、なかなか面会させてもらえず、
9月1日からずっと病室にいてもよいということを告げられ、昼間は妹にいてもらい、
夜は私が泊まり込みで側にいた。
会話もできない半月余りの入院だった。可哀そうな、可哀そうな期間であった。
妻はよく頑張った。看病という看病はできず、奇跡を信じて祈るだけであった。
それから1年、悲しみは薄まることもなく、寂しさは深まるばかり、楽しさという
ワードは無くなり、仕事も生活も、義務感と責任感だけがエンジンになっている。
昔は、責任の先に楽しみという喜びがあったのだが・・・。
相方がいなくなるということはこれほど変わるものかと驚く。
私と同じように伴侶を亡くした方がいらっしゃって、話をすると同じことをおっし
ゃっていた。
妻が健在だったころ、伴侶を亡くした方のお葬式に行き、『気を落とさず、頑張っ
てください。』などと言っていたが、今はとてもそんな第三者的な励ましはできな
い。ただ黙って涙を流し、一緒に泣いてあげることがその人への励ましになる。
『頑張って』などという言葉はもう使えない。
生活には家族の存在がとても大きい。人は自分のために働くのではなく、自分の
身近な人の今の生活、将来の生活を豊かにするために働く、自分一人のためだった
ら、途中で自分都合な理由をつけて挫折する、身近な人のためだったら持続できる。
50数年この仕事をやり続けてこれたのも妻がいたからと思っている。
9月8日に故郷の松山で一周忌法要をして、自分の心に一区切りつけばと願っている。
楽しみというワードが心の片隅にでも生まれてくれば妻も少し安心してくれるかも
しれない。
テレビで漂流郵便局の存在を知った。
宛先に届けられない人への郵便を受け付けてくれる特殊な個人のボランティア
郵便局である。
破局になった恋人へのラブレター、亡くなった人への手紙、色々な想い、伝えたい
気持ちを受け止めてくれる私設郵便局です。
手紙を出したい人からするととても有難いし、心が安らぐ仕組みです。
本当は相手には届かないかもしれないが、日記で書き留めるだけでなく、相手に
出せる、出したという現実を感じられる。それだけで相手とまだまだ繋がってい
る感覚に浸れる。
この郵便局の存在は、家内が元気だったころ耳にしたことがありました。
その時は、ロマンチックでなかなかいい試みだなぁと思っていました。
家内が亡くなった今の現実からの感想は、ロマンチックという他人的な感覚で
無く、手紙を出すことで生きる希望をもらえるという不思議で太陽のような
活力源のように思えます。
私の妻とは婚約期間中の3年間、遠距離恋愛だったものですから、お互いに手紙で
頻繁に交流しました。
今また天国と現実の遠距離恋愛に戻りましたが、出すところができただけでも
彼女と繋がっている感覚を感じられ、悲しみが和らぎ、希望が生まれます。
漂流郵便局の中田局長からお手紙をいただきました。
ご年齢が90歳、いつまでもご健在でこの郵便局を続けてもらいたい、後進がこの
思想を引き続けて欲しいと勝手な返事を書きました。
個人の費用で運営しているのに、勝手なお願いです。でも何とかしてこの郵便局、
漂流郵便局がいつまでも続くことを祈っています。
救われる人が沢山いるのですから。
香川県、瀬戸内海に浮かぶ粟島、近いうちに訪れたいと思っています。
『野菊の墓』の漫画本が新発売される新聞広告が出ていた。
私の年代なら、高校生の頃には必ず読んだ純愛小説である。
今の時代に合わない内容なのに、なぜか漫画で新発売?と思うと同時にもう一度
読み返したくなった。
早速図書館で借り、読んだ。
主人公は、政夫と民子、民子が2歳年上の従姉。兄弟のような幼馴染。
仲良しにいつの間にか恋が芽生える。世間体を気にする大人たちのために隔てられ、
政夫は町の中学へ、民子は他家に嫁ぎ、流産しそれが原因で病死する。
亡くなった時に民子の手に握られていた、政夫の写真と政夫からの手紙。
とめどもなく涙が溢れた。
二人は不純な関係でなく、お互いが思いを寄せるプラトニック、できれば将来
結婚し、暮らしたい。
口頭約束は交わしていないが、二人ともそれを望んでいる。でも2歳上という、
現代なら何でもない事柄が大きな障壁になり、違う道を歩むようになり、挙句
民子の死。
私と妻は、両家の親族も賛成で周囲から祝福され、政夫と民子と正反対の
結婚であったが、民子に妻の俊子をタブらせてこの本を読み終えた。
伴侶を亡くした気持ちがこのような感情を持たせたのかもしれない。
辛い物語であった。高校生の頃はこんな感傷を持たず、一つの悲しい出来事位しか
思わなかったはずなのに、もう80歳が近いというこの年代で涙を溢れさせる。
伊藤左千夫という作家の実体験でないかと思う物語だが、私の心も洗われた。
文中、民子は野菊の花のようであったという箇所があり、野菊は、可憐で優しくて
そうして品格があったと記されていた。
なんとなく、妻も野菊のような女(ひと)であったと思った。
以前『永遠の仔』という小説を読んだ。結末が最後まで分からなくて推理力をかき
たてられる面白い読み物であった。その物語の舞台が松山と酷似しており、松山
の事を書いてあるのでは…と思いながら読み終えた。
作者は天童荒太氏。後で分かったことだが、愛媛県松山出身、松山北高等学校卒業。
家内が卒業した高校、同じ母校であった。それで松山の風景が描かれているのか。
最近毎日新聞の小説で『青嵐の旅人』が連載されていた。
作者は天童荒太氏。新聞の連載は読み逃すことが多く、ところどころしか見ない
ので、本で出版されれば購入してじっくり読みたいと思っている。
本の内容は、伊予松山藩の幕末時の出来事をベースに物語が作られている。
登場人物が伊予松山の方言で語る個所があり、懐かしさがあった。
夏目漱石の『坊ちゃん』という小説にも松山の方言が沢山でてくる。
私が育った時代の頃には漱石の小説ほど方言訛りは酷くなかった。
因みに私が卒業した高校は『坊ちゃん』の舞台になった高校で、漱石が教鞭をとっ
ていた時は『松山中学』と呼ばれ、その後『松山東高等学校』になった。
私も家内も松山出身だから、二人の会話では方言を気にしなかったと思う。
家内は方言色がなく美しい日本語を話すが、私はいつも『関西出身ですか?』
質問されるから訛りがあるのであろう。松山弁と関西弁は似ているのであろう。
伊予松山弁で『行ってきます。』というのを『行ってこおわい。』という。
毎朝会社に行く時は『行ってこおわい。』で通していたと思う。
家内もその言葉がおかしいとも何も言わず、『行ってらっしゃい、気を付けて』
で見送ってくれた。
彼女を失って彼女の良い所だけが思い出される。
仕事の事もよく話したが、彼女は自分の意見を客観的に語り、私の考えをもう一つ
深く検討の機会を作った。頑張ってという言葉は一回も言われた記憶がない。
頑張るのは分かっていたからなのか、夫婦の間でいう言葉でないと思っていた
からなのか、分からない。
毎朝の『行ってらっしゃい、気を付けて』何気ない挨拶的言葉。
それから、どんなことにも、どんな人にも『ありがとうございます。』と感謝の
言葉を返した彼女の人柄にずいぶん救われ、助けられ、導かれていた私がいた
ことを今になって気づいている。もっと早く気づければ彼女に喜んでもらえたのに。
今は部屋に飾ってある彼女の写真一つひとつに『行ってこおわい』と呼びかけ、
彼女が『行ってらっしゃい、気を付けて』と送ってくれている声を聞こうと
耳を澄ます。
帰宅時には玄関で、できるだけ大きな声で、『ただいま、俊ちゃん』と呼ぶ。
悲しみはなかなか遠ざからない。でもそれでいいと思っている。
先日、NHKで俳優の高嶋正宏の家系、ルーツをたどるファミリーヒストリーと
いう番組をやっていた。
我々の年代なら、正宏の父親、高嶋忠夫と寿美花代夫婦を知らない人はいないだろ
う。映画俳優と宝塚歌劇団の花形の夫婦だった。後年は俳優よりテレビのキャス
スターとして有名だった。
高嶋忠夫の事で私たちの結婚式当日の事を思い出した。
私たちが結婚したのは51年前の5月7日だった。
結婚式の披露宴で、高嶋忠夫が歌ったと言われる唄を歌った。
正式に聞いたこともないので、高嶋忠夫の唄だろうとの推測である。
私が大阪で勤めていたころ、職場の先輩が宴席でいつも歌った唄である。
面白い歌詞だったので今でも記憶に残っている。
♪ 素敵なあなた、素敵なあなた ボンボンボン
一目見てから、一目見てから、ダーディユ、ダッダダ
ボクの心臓は、ボクの心臓は ボンボンボン
コントラバスだよ、デッケイ音だよ ダデュダデュダッタ ダッダダ
寝ても 覚めても ボンボンボン
あなた思ってボンボンボン
お医者様でも、草津の湯でも、お医者様でも、草津の湯でも
あなたと添えなきゃ、あなたと添えなきゃ ボンボンボン
ボクの心臓は、ぜったい、ぜったい、ぜったーい 治らない ♪
初めて歌詞に書き直したが、このような文だったと思う。
この唄を歌った後、妻が小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』を歌った。
よく通る澄み切った高音で、拍手喝さいであった。
当時新郎新婦が歌うなどの風習がなかったので、参列者は意外に思ったかも
しれない。
司会者はプロでなく、友人だったし、式次第もあるようでないようで、行き当たり
バッタリの式であったから、突然の歌披露になったのだと思う。
ファミリーヒストリーを見て、記憶がよみがえった。
夢、希望、楽しさにあふれた出発であった。不安、心配、恐れなど微塵もなかった。
この日から、51年間。喧嘩もあったが、互いがいたわりあい、同じ目標を見続け、
無言であるが 励ましあい、いい夫婦だったと思う。
今からなら、もっといい夫になれたと宣言できる。