東宝ホームのホームページへ初めてご訪問いただいたお客様にご覧いただきたいページを集めました。
地域密着で取り組む住宅メーカー。
安定した経営と確かな家づくりを続け、
快適な住まいを提供いたします。
過日私と同じ妻を亡くした方と話す機会があった。その方は私よりもずっと年下で
奥様もずっと若く、幼少のお子様を残して旅立たれているから、悲しみ、無念さは
私以上で日常を取り戻すあるいは再構築するのに苦労されたと思う。
いや、本音のところではまだ日常が作れていないかもしれない。
一周忌を終え、年齢が相当いっている私さえこれからの日常が作りきれないでいる。
まだ若く、お子様の養育を考えなければならない境遇なら、もっと難しいと思って
しまう。
夢の話になった。
亡妻の夢を見るか?二人とも全く見ないということで一致した。
彼は父親はよく夢に出てくるが、妻は出てきてくれないと言った。
私の方も、妹や亡妻の姪は、『俊さんが夢に出てきた。』とよく報告をくれるが
私には出てきてくれない。
夢でも会いたいという心境だが、一度も出てきてくれない。
浅田次郎の小説、『鉄道員』で幼くして亡くした子供が成長の年代にあわせて、
亡霊となって鉄道員の前に出てくる場面がある。
主人公の鉄道員にとって子供を失ったことがずっと心残りで、後悔を残し、それが
夢の世界で小学校、中学校、高校と成長の姿を父親の前に出現させた。
父親は夢と現実の区別のつかない世界で、その出会いを感激しながら、味わった。
全て、父親の夢想の世界の出来事である。
この小説を読んだとき、それほど感激はしなかった。
高倉健がこの小説を映画化し、映像ではそれなりに感激、感動したが、ただ夢想の
世界の出来事なので、涙が出るほどではなかった。
むしろ、同じ本に収録されていた『ラブレター』という小編の方が感動的であった。
妻を亡くした今、この小説、この映画を見ると涙が止まらないと思う。
最愛の人を失った人の感情は経験した人でないと分からないと思う。
昔は、他人の死は、他人事だった。最愛の人を失った今は、戦争でも災害でも病気
でも亡くなった人に対して、身内であろうとなかろうと『自分事(じぶんごと)』
として考えるようになった。
人の死の残念さ、残された家族の辛さが痛いほどわかる。
持って生まれた寿命の長さは分からないが、とにかく元気で長生きしてほしいと
思う。
殺しあう戦争などもってのほかだと憤りを覚える。
小説では主人公の鉄道員は亡くなる。亡くなる寸前に愛しい人が夢枕に出てくる。
成長の姿を変えながら、父である鉄道員の前に。
私の時はどのような姿で現れてくれるのか。息を引き取る寸前に夢の中に出てくる。
まるで迎えに来るように。
若い奥様を亡くした彼との会話の中で、このように思った。
多分彼も私と同じように思ったのではなかろうか。
妻が亡くなって1年になる。8月25日に緊急入院し、なかなか面会させてもらえず、
9月1日からずっと病室にいてもよいということを告げられ、昼間は妹にいてもらい、
夜は私が泊まり込みで側にいた。
会話もできない半月余りの入院だった。可哀そうな、可哀そうな期間であった。
妻はよく頑張った。看病という看病はできず、奇跡を信じて祈るだけであった。
それから1年、悲しみは薄まることもなく、寂しさは深まるばかり、楽しさという
ワードは無くなり、仕事も生活も、義務感と責任感だけがエンジンになっている。
昔は、責任の先に楽しみという喜びがあったのだが・・・。
相方がいなくなるということはこれほど変わるものかと驚く。
私と同じように伴侶を亡くした方がいらっしゃって、話をすると同じことをおっし
ゃっていた。
妻が健在だったころ、伴侶を亡くした方のお葬式に行き、『気を落とさず、頑張っ
てください。』などと言っていたが、今はとてもそんな第三者的な励ましはできな
い。ただ黙って涙を流し、一緒に泣いてあげることがその人への励ましになる。
『頑張って』などという言葉はもう使えない。
生活には家族の存在がとても大きい。人は自分のために働くのではなく、自分の
身近な人の今の生活、将来の生活を豊かにするために働く、自分一人のためだった
ら、途中で自分都合な理由をつけて挫折する、身近な人のためだったら持続できる。
50数年この仕事をやり続けてこれたのも妻がいたからと思っている。
9月8日に故郷の松山で一周忌法要をして、自分の心に一区切りつけばと願っている。
楽しみというワードが心の片隅にでも生まれてくれば妻も少し安心してくれるかも
しれない。
テレビで漂流郵便局の存在を知った。
宛先に届けられない人への郵便を受け付けてくれる特殊な個人のボランティア
郵便局である。
破局になった恋人へのラブレター、亡くなった人への手紙、色々な想い、伝えたい
気持ちを受け止めてくれる私設郵便局です。
手紙を出したい人からするととても有難いし、心が安らぐ仕組みです。
本当は相手には届かないかもしれないが、日記で書き留めるだけでなく、相手に
出せる、出したという現実を感じられる。それだけで相手とまだまだ繋がってい
る感覚に浸れる。
この郵便局の存在は、家内が元気だったころ耳にしたことがありました。
その時は、ロマンチックでなかなかいい試みだなぁと思っていました。
家内が亡くなった今の現実からの感想は、ロマンチックという他人的な感覚で
無く、手紙を出すことで生きる希望をもらえるという不思議で太陽のような
活力源のように思えます。
私の妻とは婚約期間中の3年間、遠距離恋愛だったものですから、お互いに手紙で
頻繁に交流しました。
今また天国と現実の遠距離恋愛に戻りましたが、出すところができただけでも
彼女と繋がっている感覚を感じられ、悲しみが和らぎ、希望が生まれます。
漂流郵便局の中田局長からお手紙をいただきました。
ご年齢が90歳、いつまでもご健在でこの郵便局を続けてもらいたい、後進がこの
思想を引き続けて欲しいと勝手な返事を書きました。
個人の費用で運営しているのに、勝手なお願いです。でも何とかしてこの郵便局、
漂流郵便局がいつまでも続くことを祈っています。
救われる人が沢山いるのですから。
香川県、瀬戸内海に浮かぶ粟島、近いうちに訪れたいと思っています。
『野菊の墓』の漫画本が新発売される新聞広告が出ていた。
私の年代なら、高校生の頃には必ず読んだ純愛小説である。
今の時代に合わない内容なのに、なぜか漫画で新発売?と思うと同時にもう一度
読み返したくなった。
早速図書館で借り、読んだ。
主人公は、政夫と民子、民子が2歳年上の従姉。兄弟のような幼馴染。
仲良しにいつの間にか恋が芽生える。世間体を気にする大人たちのために隔てられ、
政夫は町の中学へ、民子は他家に嫁ぎ、流産しそれが原因で病死する。
亡くなった時に民子の手に握られていた、政夫の写真と政夫からの手紙。
とめどもなく涙が溢れた。
二人は不純な関係でなく、お互いが思いを寄せるプラトニック、できれば将来
結婚し、暮らしたい。
口頭約束は交わしていないが、二人ともそれを望んでいる。でも2歳上という、
現代なら何でもない事柄が大きな障壁になり、違う道を歩むようになり、挙句
民子の死。
私と妻は、両家の親族も賛成で周囲から祝福され、政夫と民子と正反対の
結婚であったが、民子に妻の俊子をタブらせてこの本を読み終えた。
伴侶を亡くした気持ちがこのような感情を持たせたのかもしれない。
辛い物語であった。高校生の頃はこんな感傷を持たず、一つの悲しい出来事位しか
思わなかったはずなのに、もう80歳が近いというこの年代で涙を溢れさせる。
伊藤左千夫という作家の実体験でないかと思う物語だが、私の心も洗われた。
文中、民子は野菊の花のようであったという箇所があり、野菊は、可憐で優しくて
そうして品格があったと記されていた。
なんとなく、妻も野菊のような女(ひと)であったと思った。
以前『永遠の仔』という小説を読んだ。結末が最後まで分からなくて推理力をかき
たてられる面白い読み物であった。その物語の舞台が松山と酷似しており、松山
の事を書いてあるのでは…と思いながら読み終えた。
作者は天童荒太氏。後で分かったことだが、愛媛県松山出身、松山北高等学校卒業。
家内が卒業した高校、同じ母校であった。それで松山の風景が描かれているのか。
最近毎日新聞の小説で『青嵐の旅人』が連載されていた。
作者は天童荒太氏。新聞の連載は読み逃すことが多く、ところどころしか見ない
ので、本で出版されれば購入してじっくり読みたいと思っている。
本の内容は、伊予松山藩の幕末時の出来事をベースに物語が作られている。
登場人物が伊予松山の方言で語る個所があり、懐かしさがあった。
夏目漱石の『坊ちゃん』という小説にも松山の方言が沢山でてくる。
私が育った時代の頃には漱石の小説ほど方言訛りは酷くなかった。
因みに私が卒業した高校は『坊ちゃん』の舞台になった高校で、漱石が教鞭をとっ
ていた時は『松山中学』と呼ばれ、その後『松山東高等学校』になった。
私も家内も松山出身だから、二人の会話では方言を気にしなかったと思う。
家内は方言色がなく美しい日本語を話すが、私はいつも『関西出身ですか?』
質問されるから訛りがあるのであろう。松山弁と関西弁は似ているのであろう。
伊予松山弁で『行ってきます。』というのを『行ってこおわい。』という。
毎朝会社に行く時は『行ってこおわい。』で通していたと思う。
家内もその言葉がおかしいとも何も言わず、『行ってらっしゃい、気を付けて』
で見送ってくれた。
彼女を失って彼女の良い所だけが思い出される。
仕事の事もよく話したが、彼女は自分の意見を客観的に語り、私の考えをもう一つ
深く検討の機会を作った。頑張ってという言葉は一回も言われた記憶がない。
頑張るのは分かっていたからなのか、夫婦の間でいう言葉でないと思っていた
からなのか、分からない。
毎朝の『行ってらっしゃい、気を付けて』何気ない挨拶的言葉。
それから、どんなことにも、どんな人にも『ありがとうございます。』と感謝の
言葉を返した彼女の人柄にずいぶん救われ、助けられ、導かれていた私がいた
ことを今になって気づいている。もっと早く気づければ彼女に喜んでもらえたのに。
今は部屋に飾ってある彼女の写真一つひとつに『行ってこおわい』と呼びかけ、
彼女が『行ってらっしゃい、気を付けて』と送ってくれている声を聞こうと
耳を澄ます。
帰宅時には玄関で、できるだけ大きな声で、『ただいま、俊ちゃん』と呼ぶ。
悲しみはなかなか遠ざからない。でもそれでいいと思っている。