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東宝ホーム 本社会社案内・IR情報社長の月刊Blog
令和5年11月5日 妻への思い

世の中に大変な出来事が多発しています。
イスラエルとハマスのガザ戦争、ウクライナ戦争の続行…
地球温暖化とゼロカーボン運動
戦争は地球破壊活動、ゼロカーボンは地球存続活動。
私が考えていることは現実的にはできないと思うが、世界から戦争が無くなれば、
地球を存続させる運動は弾みがつき成功すると思う。
問題は現実戦争の即時停止と戦争の未然防止活動だと思う。

こんなことも考えながらも、今でも家内の事で頭が一杯である。
家内が亡くなって、時間を後戻りさせることできないので考えても仕方ないという
事は分かっているが、反省と後悔の日々である。
七日ごとの法要を行い、49日法要も松山で済ませた。行政への手続きは終了し、
生活してきた様々の処理は未了である。手紙などで気づくことがほとんどなので、
その都度やってゆくしかない。
物理的作業は多分できてゆくと思うが、心の執着心はスパッと切れないでいる。
思い出しては涙が溢れる。
楽しかったことも沢山あったはずなのに、最後の入院19日間の事が、かわいそうで
かわいそうで、守ってやれなった、助けてやれなかったことが思い出される。
入院初期は、自分のことより私の生活と体調を心配し、『犬の世話と食事が大変
だけど、頑張って、体力が落ちるといけないので食事をきちんと取って』
その一日後からは長い言葉はしゃべれず、『ありがとう、ありがとう』の言葉
ばかり。
最後の数日はのどの渇きから『水、アイス』『水、水』。
誤嚥があるから飲ませる事ができない。口に含ませるだけ、何もしてあげることが
できない。
看護師から『しゃべることはできませんが、聞くことはできますから耳元で話した
り、歌を歌ってあげて下さい。』妻への思いを率直に語り、歌も沢山歌った、
彼女に届くことを信じて。
入院してから、口からは食べ物は補給できず、点滴栄養剤だけであった。死の
数日前『ごはん』と言った。
私は『ごめんね、ごめんね』としか答えられなかった。
何もしてやれない、助けてやれない、守ってやれない、
健康診断に毎年一緒に行けば、行っていれば助けられた。行け、行けというだけ
で連れて行かなかった。
簡単な行動である。これをしなった。後悔だけである。
いつの日か、この辛い想い出から楽しい想い出を思い出す時になればと願っている。
耳元で一番沢山歌った歌は『母さんの歌』だった。
♪母さんが夜なべをして
 手袋編んでくれた
 木枯らし吹いちゃ
 冷たかろうて、せっせと編んだよ

こんな歌だった、家内の事をお母さんと思っていたのかもしれない。

2023.11.06 09:43 | 固定リンク
令和5年10月12日 19年目の手紙

今日で家内が永遠の旅に旅立って1ヶ月になる。

仕事を始めれば、悲しさ、寂しさも紛れるとの助言も頂き、以前通りのスピードで

仕事しているつもりでいる。

でも家庭、家族の寂しさは仕事で埋めることはできず、仕事と家庭は別々の領域

なので、なかなかうまく調節できないでいる。

多分もう少しとか、もっと多くの時間とか、が、かかるのであろう

幸い、千葉から妹が応援に来てくれているので、心理的にも、家事の事でも

助かっている。

家内の着ていた服などの整理もしてもらっている。

箪笥の整理をしてもらっているときに、家内から私への手紙が出てきた。

平成16年2月に書いていた手紙で、封をしている。

書いたのだが、渡しそびれていたのであろう。それが今出てきた。

19年前の手紙。

出だし標題に  通様  と書いてある。

次の行に、今年の5月で結婚31年目になります。

あっという間の月日の経過でした。

 

その後、二人で行った、ハワイ旅行、香港旅行、ニューヨーク旅行、ラスぺガス

旅行、楽しかった思い出が書かれている。

私への感謝の気持ちが述べられ、また自分(俊子)と結婚できたことを喜んで

くれたら、うれしいと書かれてある。

『私と生活することで幸せを感じくれることがあったら嬉しいです』

こんな言葉が書かれている。

私こそ、俊子と結婚でき、一緒に暮らせたことが最高の幸せでした。

二人の存在はどちらか片方で成り立たず、二人がいたからこそ充実した、豊かな

時間を持てた。俊子は私がいたから存在したと書き、私自身も俊子がいたから

仕事にも、プライベートな生活も生き甲斐を感じた。

『照れくさいが、私の事を愛している。』と書かれてある。

好きなのはお互いに分かっているが、こんな直接的な表現は初めて。

私は、誕生日プレゼントする時など、直接的表現は度々する。

彼女からは今回の手紙が初めて。

嬉しいが、悲しい。亡くなった後に手紙で伝えてくれるなんて。

最後に、身体に気を付けて、仕事頑張って下さい。大きな夢に向かって

一歩一歩前に向かって進んでください。と結んである。

 

19年前というと、今の会社がどうなるのか、方向も見えず、ただ頑張るだけの

時代。

私への励ましの手紙だったのか、何か心に期することがあって書いたのか。

今となっては、知る由もない。

 

今日は朝5時半に目覚め、犬の散歩に出た。

東の空に、薄い三日月、三日月の右上に明けの明星、

何を見ても悲しく、寂しくなる。

2023.10.13 14:49 | 固定リンク
令和5年9月23日 病(やまい)

8ヶ月間の闘病生活を経て家内が永遠の旅に旅立った。
悲しくて、寂しくて仕方ない。言葉を出すと涙が出てしまう。
家内の事を言っているわけでない、病気のことを言っているわけでない
普通の日常会話なのに、涙声になる、涙が出る。言葉が嗚咽に変わる。
寂しくて、寂しくて、仕方ない。
75歳であった。最近の実年齢は、7割掛け、8割掛けと言われているから、
7掛けならば53歳、8掛けならば60歳。まだまだ二人で旅行にも行けた
はず。
明るくて、理知的で、気遣いと感謝の気持ちを持った私には過ぎた家内で
あった。料理も上手であった。何よりも私の仕事の最高の理解者で、最大の
応援団であり、たった一人の仕事の相談者であった。
仕事の構想を語り、手順を述べ、組織、体制までいろいろ話した
仕事のやり方が自分の独りよがりになっていないか、チェックするために
仕事について話した。彼女の反応は非常に参考になった。
家庭に仕事を持ちこまないほうがいいのかもしれないが、私は全く逆で、
彼女も仕事について関心を持ってくれた。
その相棒が突然いなくなった。
これからの日常がどうなるのか予想がつかない。2歳になる愛犬がいるので
その面倒をみながら、日常を少しづつ受け入れていかないといけないのだろう。

何故、彼女の癌に気づかなかったのか?
毎年会社では健康診断が義務付けられている。家族の健康診断の手配もして
くれている。
毎年、健康診断に行くようにと言ってきた。彼女は健康に自信があったのか、
忙しかったのかここ十数年受診していない。
でも、近所のクリニックでは2か月に一回のペースで血液検査を受けている。
胃潰瘍の薬も処方されていた。
胃潰瘍の進化系が胃癌だと私は思っている。

臨終の数日前、健康診断に行け、行けというだけで、自分が連れて行かなかった
ことに気づいた。
健康診断を二人の年中行事に組み込んでおれば、早期発見、治療もできたのに、
悔やまれてならない。
こんな簡単なことに気づかないなんて最低の夫だ。死ぬ直前に分かるなんて
冷たい男だ。

最後の抗がん剤治療を受けた時、血液検査の結果を見て『検査結果はなんとか
基準をクリアしているから、抗がん剤を打ちましょう』と主治医が言った。
抗がん剤の医者の所に行き、2次診断を受けた時、『膀胱に炎症反応が出ている。
主治医は何と言っていましたか?』「数値はぎりぎりだが打ちましょう」と
言ってました。『…そうですか。それでは打ちましょう。』
あの時に体に炎症反応が出ているので今回は中止しましょうと主治医が言って
くれれば、悪夢のような19日間は来なかったかもしれない。

緊急入院して点滴だけで命を永らえた19日間、辛かったと思う。
『水』『アイス』『ごはん』と言った言葉が頭から離れない。
こんなことすら叶えてあげられない。苦しくて仕方ない。
書くことで少しづつ日常を創ることができるのではと思っている。
もう少し、自分が頑張らねば、家内のためにも。

2023.09.23 10:51 | 固定リンク
令和5年8月17日 家 事

妻が病気になり、家事全般を自分でやるようになった。
独身時代も含め、今まで自活ということをしたことがない。
独身時代は寮があり、寮母さんが面倒を見てくれ、単身赴任も1年半ほど経験したが、
毎週洗濯物持参で帰り、食事は外食で済ました。本格的家事は今回が初めてである。
家内の有り難味が身に染みる。
私が何々を食べたいと言えば、数日後には必ずその料理を作ってくれる。
食事後、私はテレビを観るだけ、彼女が後片付けをする。
洗濯物は出すだけ、取り込みもたたんで直すこともしない。どこに何が入っている
のかも気に留めない。全て家内に聞けばよいと思っている。
その生活が一変した。
幸い今はトイレには自分で行ける状態であるが、寝ているだけなので、筋力が落ち
階段は一人で登れない。支え引っ張ってあげないと無理である。
今の自宅は3階建て住宅で、エレベーターを設置したのがよかったとつくづく感じて
いる。
家内は手をつないで歩くことなど絶対にしない人です。恋愛中も結婚後も手をつな
いで歩いた記憶がありません。皮肉な事に今は家内と手をつながないと歩行困難な
状態で、病院や運動を兼ねた近くのマーケットでの買い物は手をつないでの歩み
です。
なんとか回復して元の生活が取り戻せることを祈り願うばかりです。
家内が家事をして、私がそばでサポートをする。
このようになればいいなぁ、できれば小旅行でもできるようになれば…。
当分は私が家事の達人になり、彼女に心配させないように、家事が笑いと笑顔の
ネタになるように頑張りたいと思っています。

2023.08.17 19:25 | 固定リンク
令和5年7月22日 婦人之友 羽仁もと子さん

50年ほど前になる。大分市で住宅営業として働き始めた。
前職は、小さな商社の営業で主には金属洗浄剤を販売していた。
販売品目は新商品で、販売ルートから探さないといけないものでした。
主な需要先は分かっていたので、その方面に飛込みによる新規客の開拓しか方法
ありませんでした。大きな工場、小さな工場飛込み訪問を繰り返しました。
現在では、セキュリティの関係で工場の中に入れてもらうのが困難で、私がや
っていた営業はできないと思う。幸いそのころは、紹介状がなくても購買の人
に面談ができた。
松下電器産業、ミノルタカメラ、凸版印刷、製缶工場、繊維の染み抜き工場、
…大きな工場、小さな工場、歩き回り飛込み商談を重ねた。
金属を洗浄するなど一般では考えられないのであるが、製品を造る時には必要重要
な工程で、そこに使う溶剤を販売した。
溶剤は、東洋曹達(現在の東ソー)の製品で、そのメーカーの人と一緒に近畿一円
を走り回り、2年間この仕事に没頭した。
親友は学生時代の友人が多いようであるが、私はこの方と2年間交際し、一生涯
の友を得た。この友を得るために仕事を与えてくれたような気がする。
その後、結婚相手が決まり、彼女も松山なので、大阪で暮らすより、故郷の松山で
暮らしたいと思い転職を決断した。
松山で面接をし、採用は決まったのであるが、勤務地が大分で、今更元の会社に
帰るわけにいかず、人生の流れが松山に向いていないのかもと考え、大分に赴任
した。
大分の地で住宅営業の第一歩を開始した。

住宅はお客様の家族生活に深く関わる仕事で、ものすごくやりがいを感じた。
前職が工場が相手で、最終製品が世の中でどのように活用されているかが、あと
一歩不明瞭であったが、今度の仕事は個人の現在生活、将来生活に直結している。
エンドユーザーにこれほど深く関わる仕事はないだろうと思う。
家計面、家族観、仕事観、人生観、本音で語り合わなければマイホームは完成
しない。
販売術もあるが、真の親切心がなければ完成しない。売る側の人間性向上が必須
の仕事である。奥が深い。ごまかしなどもってのほか、誠心誠意、正直、親切心
が基本の仕事である。

大分では沢山の方々に住宅を建てていただいた。
お客様の中に、『婦人之友』の会員の方が数名いて、どの方も家族や家庭に関する
考え方がすごく立派で共感できた。
家内をその会員にしてもらいお付合いをさせていただいた。
その会が、羽仁もと子さんが主宰する、婦人之友の会である。
毎月送られてくる雑誌『婦人之友』を見ていると、創業120年と書いてあった。
120年間続く組織、120年間続く雑誌。圧倒される。
羽仁もと子さんは、日本で初めての女性記者、1873年に青森で生まれ、1957年に
亡くなっている。亡くなるまで婦人之友の雑誌の巻頭に、友への手紙というテーマ
で文章を書き続けたということである。雑誌創刊が1903年、亡くなったのが1957
年であるから、54年間毎月書いたことになる。驚嘆です。
友の会は、最寄り(もより)という小集団活動があり、話し合ったり、家計調査を
したり、家事や料理研究などをしていたように思う。私はその場に行ったことが
ないので、家内の言動からそのように推察している。
家庭のあり方や家族の在り方について非常にまじめで、家内からの話で私も大いに
感化を受けた。
自由学園という学校も経営しており、その校舎がフランクロイド・ライトが設計
したと聞いて、ますます愛着を感じた。
この25年ほどは家内が趣味の茶道の活動が忙しく、友の会活動はただ会員になっ
ているだけであるが、私としては婦人之友の活動の方が社会貢献できる気がして
いる。
羽仁さんは84歳で亡くなったことになる。その人生は、前へ、前へ、いつまでも青春
バイタリティを貫いたように感じている。
私の目指すところである。

2023.07.22 18:39 | 固定リンク