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地域密着で取り組む住宅メーカー。
安定した経営と確かな家づくりを続け、
快適な住まいを提供いたします。
50年ほど前になる。大分市で住宅営業として働き始めた。
前職は、小さな商社の営業で主には金属洗浄剤を販売していた。
販売品目は新商品で、販売ルートから探さないといけないものでした。
主な需要先は分かっていたので、その方面に飛込みによる新規客の開拓しか方法
ありませんでした。大きな工場、小さな工場飛込み訪問を繰り返しました。
現在では、セキュリティの関係で工場の中に入れてもらうのが困難で、私がや
っていた営業はできないと思う。幸いそのころは、紹介状がなくても購買の人
に面談ができた。
松下電器産業、ミノルタカメラ、凸版印刷、製缶工場、繊維の染み抜き工場、
…大きな工場、小さな工場、歩き回り飛込み商談を重ねた。
金属を洗浄するなど一般では考えられないのであるが、製品を造る時には必要重要
な工程で、そこに使う溶剤を販売した。
溶剤は、東洋曹達(現在の東ソー)の製品で、そのメーカーの人と一緒に近畿一円
を走り回り、2年間この仕事に没頭した。
親友は学生時代の友人が多いようであるが、私はこの方と2年間交際し、一生涯
の友を得た。この友を得るために仕事を与えてくれたような気がする。
その後、結婚相手が決まり、彼女も松山なので、大阪で暮らすより、故郷の松山で
暮らしたいと思い転職を決断した。
松山で面接をし、採用は決まったのであるが、勤務地が大分で、今更元の会社に
帰るわけにいかず、人生の流れが松山に向いていないのかもと考え、大分に赴任
した。
大分の地で住宅営業の第一歩を開始した。
住宅はお客様の家族生活に深く関わる仕事で、ものすごくやりがいを感じた。
前職が工場が相手で、最終製品が世の中でどのように活用されているかが、あと
一歩不明瞭であったが、今度の仕事は個人の現在生活、将来生活に直結している。
エンドユーザーにこれほど深く関わる仕事はないだろうと思う。
家計面、家族観、仕事観、人生観、本音で語り合わなければマイホームは完成
しない。
販売術もあるが、真の親切心がなければ完成しない。売る側の人間性向上が必須
の仕事である。奥が深い。ごまかしなどもってのほか、誠心誠意、正直、親切心
が基本の仕事である。
大分では沢山の方々に住宅を建てていただいた。
お客様の中に、『婦人之友』の会員の方が数名いて、どの方も家族や家庭に関する
考え方がすごく立派で共感できた。
家内をその会員にしてもらいお付合いをさせていただいた。
その会が、羽仁もと子さんが主宰する、婦人之友の会である。
毎月送られてくる雑誌『婦人之友』を見ていると、創業120年と書いてあった。
120年間続く組織、120年間続く雑誌。圧倒される。
羽仁もと子さんは、日本で初めての女性記者、1873年に青森で生まれ、1957年に
亡くなっている。亡くなるまで婦人之友の雑誌の巻頭に、友への手紙というテーマ
で文章を書き続けたということである。雑誌創刊が1903年、亡くなったのが1957
年であるから、54年間毎月書いたことになる。驚嘆です。
友の会は、最寄り(もより)という小集団活動があり、話し合ったり、家計調査を
したり、家事や料理研究などをしていたように思う。私はその場に行ったことが
ないので、家内の言動からそのように推察している。
家庭のあり方や家族の在り方について非常にまじめで、家内からの話で私も大いに
感化を受けた。
自由学園という学校も経営しており、その校舎がフランクロイド・ライトが設計
したと聞いて、ますます愛着を感じた。
この25年ほどは家内が趣味の茶道の活動が忙しく、友の会活動はただ会員になっ
ているだけであるが、私としては婦人之友の活動の方が社会貢献できる気がして
いる。
羽仁さんは84歳で亡くなったことになる。その人生は、前へ、前へ、いつまでも青春
バイタリティを貫いたように感じている。
私の目指すところである。
住宅業界に関わって51年になる。半世紀。
営業で入社して、ずっと住宅営業の事ばかり考え続けている。
店長になり、所長になり、支店長になり、今は社長をしているが、どの立場の時にも
第一線の住宅営業の事ばかりしか考えていなかった。
それでよく社長が務まるものだと自分でもあきれている。
普通、売り上げや利益を何年計画でこのようにするとか、この事業をこのように拡大
してゆくとか壮大な計画を言うのが社長だろうと思うが、そのような計画をしない。
希望や夢はあるが、それを計画に落とし込み、実行策を練るようなことまではしない。
大雑把な社長である。
一件の見込み客を増やす方法、その育成策、そして一件一件の戦いに勝つ方法、
心構え、仕事への日常の姿勢。こんなことしか考えていない。
最近、自分の後を託さないといけないと思い、次の時代を背負うであろう人と話す
機会があった。私など足元にも及びつかないほどよく考えているし、緻密である。
組織論にも熟知している。無知な私がよくも20年間、社長業をやってこれたと思い
不思議に思う。
振り返えると私の想いに感じてくれる人が集まり、同志的結合になり、一つの方向に
向いて団結した。人が集まってくれたのが奇跡であるように思える。
遠大壮大な計画はなかった。とにかく頑張る。あまり先を見ず、今を頑張る。
こんな51年間であった。
今も今を頑張らないといけないと思っている。
順風満帆などない、いつも逆風。でも知恵を出し、行動すれば必ず道は見え、開けて
くる。
コロナ後消費行動は全く変わった。でも人の感情は変わっていない。
『先義後利』お客様の幸せを先に考えて、正しいことをする。ごまかしや嘘つかない。
利益は後から必ずついてくる。
『正直に、親切に、愉快に』人とのお付合いの原理原則、良いお付合いが発展の根本。
人生で家を2軒も3軒も建てる人はいないが、建てた人の周辺にはまだ建てていない人が
無限に存在する。それ方々をご紹介してもらえるのは、良いお付合い。人間力。
こんなことを思いながら今日を頑張る。
先月5月26日高校の同期会があったので久しぶりに松山に帰省した。
年賀状には『いつまでも 青春!!』と書くことが多い。
現役で仕事している間は、今も青春中と思って過ごしているが、仕事の青春と
高校時代のはちきれるような夢と希望の青春、淡い初恋のときめきと失望の
青春は全く異質であると感じた。
仕事の青春には必ず結果を要求され、それも良い結果でなければ充実感がない。
10代の青春には良い結果でも悪い結果でも、良い想い出として記憶される。
全てが懐かしい。
高校時代の同期は480名位いたと思う。今回集まったのは36名であった。
以前はオリンピックの開催の時に、4年周期で開催されていたのであるが、
お世話役の幹事の方が亡くなり、自然消滅的に終わっていた。
今回ゴルフ仲間が中心になり、ゴルフ表彰式の延長で同期会を復活させたら
しい。
年賀状に集まりがあったら知らせてほしいと出していたら、連絡があり今回の
帰省になった次第。
卒業後60年近くになるので物故者も多いが、何とか元気な間は会があれば
参加したいと思っている。
幸い、つぎのお世話役も決定したので次回はもっと多くの人と会えるのではと
期待している。
私のイントネーションは北九州地区の音程と違っていて、いつも関西出身です
かと聞かれる。松山弁、伊予弁のイントネーションは大阪弁と似ているのであ
ろう。
同期会では、伊予弁が会場内を満喫交錯し、一気に高校生に逆戻り、徐々に
白髪、禿げ頭、しわ顔が高校時代の顔に変化していった。
楽しくて、懐かしくて、やはり松山はいいなぁと感じたひと時であった。
4人兄弟の次男坊である。4歳上の兄、1歳下の妹、4歳下の弟。
今のところ、病気を抱えながらも全員無事健康に過ごしている。
今年の1月下旬に家内の病気が分かり、家事のできない状態が続き、自分が
家内から教えてもらいながらボチボチやっているが、千葉から妹が助けに
来てくれ、大変助かっている。
妹のご主人は転勤族で最後は東京勤務であり、千葉に居を構えた。
残念ながら数年前にご主人が病気で他界し、その後子供夫婦と同居生活を
している。
子供夫婦は、夫婦と孫3人の6人家族である。
小学生中心に子供3人、自分の娘も働いているので、家事の役割からすると妹の
存在は大きい。多分千葉でも困っているのではと心配している。
それを全く口にせず、私に負担をかけずに支援してくれている。
素晴らしい妹である。
妹のご主人は転勤族で、狭い社宅で暮らし、かつ転勤に備えていた関係もあり、
整理整頓が素早いし、合理的である。
私と家内はずっと一軒家暮しだったし、子供にも恵まれず、二人だけの生活
だったので、家事や整理整頓の工夫が少なかった気がする。
妹が応援に来てくれ、しばらくは応援者として傍観者的支援であったが、
今は家事の主体者として取り仕切ってくれ、少しずつ我が家の状態が変わり
つつある。
家内からするとそこまでしてもらわなくてもという所もあるかもしれないが、
妹の明るい性格で、そのような気持ちにさせていない。素晴らしい対応力で
ある。
小さい時から、口喧嘩は妹に勝ったことがない。力での喧嘩はしたことが
ないから、いさかいは全て妹の勝利ということである。
家内は妹の友達で、家内と知り合ったのは妹のおかげで、幸せのキューピッド
でもある。付き合いは私より古いし、私より話しやすい所も多いであろう。
私のいないとき二人で私の知っていないことも話している様子である。
家内も非常に頼りにしている。
ただ、千葉の子供夫婦も妹を頼りにしている事を思えば、いつまでも迷惑を
かけるわけにいかないと思っている。
早く家内が家事のできる状態まで回復するのと、私の家事工夫とスピードを
高めないといけない。
家内も兄妹もできるだけ長く健康で笑顔で過ごせることを祈っている。
兄妹のありがたさを感じ、感謝する毎日である。
今年になって、『ラーゲリーより愛をこめて』の映画を観て以来、映画を
観ていない。
映画や観劇は自分の好きな娯楽であるが、必ず家族と一緒に行く。
1月下旬に家族が健康を害していることが分かり、その回復を願い続ける
日々が続いている。幸い容体が悪化している兆候はなく、このまま快方に
向かい、また一緒に映画鑑賞や観劇ができる日を望んでいる。
家族が悪くなって、家族のことを考えることが多くなった。
仕事に没頭できたのも、家族の協力があったからであったし、仕事上で
唯一の相談相手は家族であった。自分の判断が正しいか、的を得ているか
確認するのも家族であった。
仕事を家庭に持ち込まない人もいるが、私は仕事も家庭も混同するタイプで
家族もそれを否とせず、私の独り言ともいえる仕事内容に世間一般の客観的
感想を述べてくれている。私にはそれが一番有難かった。
映画『ラーゲリー』も家族の映画であった。
戦争で離ればなれに、主人はソ連(今のロシア)のシベリアで強制労働、
帰国を望みながら、シベリアで没し、家族への遺言を仲間が口頭にて日本の
家族に伝えに行く。家族への想い、愛情が溢れていた。
家族のためであったら、頑張りを持続できるし、目標を持ち続けることが
できる。
自分一人であったら、中断、あきらめてしまう。
家族の存在は大きい。
社員全員家族を持っている。独身でも親、兄弟という家族がいる。
自分の家族のためにも、社員の家族のためにも、もうひと踏ん張りしようと
決心する日々である。