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東宝ホーム 本社会社案内・IR情報社長の月刊Blog
令和7年8月15日 去る者は日々に疎し(うとし)にならない場合もある

日が経つに従って忘れてゆく、亡くなった友人たちも日が経つに従って思い出さ
なくなる。
仕方のないこと。でも、自分の子供を亡くした親御さんの話を聞くと、今なら何歳と
ハッキリと返答される。記憶が鮮明に残り、記憶と共に日常があるから亡くなった
子供の年を即座に答えるのだろう。
去った人との関係性の深さで日々に疎くなる場合とそうでない場合に区別される。
第二次世界大戦が終わって80年。
追悼行事や戦争の詳細について報道したり、戦争について考える番組などが放映
される。
子供の目の前で親が射殺され、その両親の骨も手元になく、二人の遺髪だけを取り、
逃げ延びた。90歳になった今、やっと語れるようになった。
人前で語れるようになるまで80年間。鮮烈な記憶はその方の心の中に固く閉じ込め
外に出すことを許さなかったんだと思う。
両親が亡くなったサイパンに何度も慰霊の旅をするに従って、当時の状態を残して
おくことが両親への供養になると感じ、語るようになったんだと思った。
その方にとって、両親はずっと心の中に生き続け、薄まることなく存在した。
80年の間、物理的寿命を全うするため、生きる事柄を優先する時代もあり、子育て
や家族の生活に精力を注いできた。それらがひと段落すると、閉じ込めていた記憶
を訪ねる活動をする。
人間は、忘れることによって活動が活発化するが、心の底に深く沈んだ記憶は何か
の状態で浮かび上がってくるのではなかろうか。
自分自身の時間が取れやすくなった時に浮かび上がってくる。
それが50年とか60年、70年、80年という区切りでは    と思っている。

妻を亡くしてから、人の死について全て自分事になり、感傷的になってきている。
戦争でも、災害でも、病気でも、人を失うことは絶対にダメだと考えている
人は一人でなく、家族がいる、友人がいる、仲間がいる、それらの人の為にも
できるだけ寿命を全うしないといけない、戦争などで寿命を断ち切ってはいけない。
戦争を引き起こすリーダーを即刻辞めさせないといけない。
彼らは自己の利益のみ追求する、利己主義者である。
生まれ変わった時に、自分が相手に生まれることもある。たまたま今の自分に生ま
れたから、相手攻撃するのであるが、状態がそっくり正反対の事もありうる。
そのように考えると戦争など引き起こしてはいけないと思う。
早く、ウクライナやガザの戦争が終わることを期待する。

私事である。
今月の25日、妻が最後の緊急入院して、点滴だけの19日間、辛かったと思う。
可哀そうで仕方ない。楽しかった思い出も沢山あったはずなのに、妻の写真の前
では謝罪の言葉しか出てこない。
8月17日、故郷の松山で3ヶ年法要を行う。次の7回忌ができればいいのであるが、
分からない。自分も兄弟もほぼ同じ年、年単位、月単位の寿命の中での生活である。
ただ、自分の最後を見届ける人がいないと困るのでその方法だけは近いうちに
考え出さないといけない。
私が先に逝った時、妻がこの心配をするわけだから、その苦労を掛けないだけでも
良かったかもしれない。

2025.08.15 10:00 | 固定リンク
令和7年7月17日 対極の暮らし

一人になった私の暮らしを心配してくれる人から時々電話やメールをもらう。
どの人も私と同世代で、自分の体力と気力を基準に考えるので、私の生活の困難さ
栄養補充方法などが大変だろうと心配して電話やメールをくれる。
何とかやっている。
今までしたことなかった洗濯もやっている。取りこみも片付けも。
食事も、後片付けも、掃除も、ゴミ出しも、クリーニング出しも、食品など買い物も
何とかやっている。
それに朝、晩の犬の散歩。これは時間制約を受けるので大変な仕事である。
夜の食事会などあるとドッグホテルに預けたり、知り合いにお願いしたり、大変
である。
これも何とかやっている。
できていないのは、掃除機かけかもしれない。掃除機を動かすのが面倒なので、
掃除機は使わない。シュロぼうきで床をはく。埃がほうきの先に集まり、掃除を
している感覚がする。
仕事も迷惑をかけていない程度はやれていると思っている。
仕事の最中には仕事の事しか考えない。
ただ車で各事業所への移動の道中は妻の事を思い、妻の名前を呼んでは、悲しくなり
涙することが多い。
私に電話をくれる相手に心配かけない配慮もあるが、『元気でやっている。大丈夫』
と答える。
ある時、仕事と家事、その間に何もない。対極の生活だねと言われた。
まさにその言葉がぴったりの生活である。生きるために食を中心に生命維持生活、
もう一つは会社発展の道筋をつけるための公的生活。
妻が生きていた時はどうだったのだろう。
対極の真ん中に妻や犬とのものすごく豊かな時間と空間があり、それが明日への活力
源になっていた。
その時間、空間は、潤いという表現がぴったりのような気がする。
潤い、これは人と人の結びつきやふれあいでないと生まれないような気がした。
この言葉の内容を濃くするため人は頑張れるのかもしれない。
関わる相手を心身とも豊かにするために頑張る。
今の私には、潤いという場面がない、しかし妻との50年間の想い出は潤いで一杯
である。この過去の想い出と彼女に心配させないというのが今の自分の気力の源の
ような気がしている。亡くなった妻に心配かけないというのも変であるが、これは
経験した人でないと分からない感情であろう。
今年の9月12日が妻が永遠の旅立ちをして2年目、3回忌である。
8月中旬に松山で3回忌法要を営むことを親戚に連絡した。
悲しさはなかなか去らない、むしろ深まることさえある。
仕方ない、時の流れに従うまで。

2025.07.17 13:05 | 固定リンク
令和7年6月22日 母

妻と私の馴れ初め(なれそめ)のキッカケ仕掛け人が母じゃないかとの確信に似た
推測が出来上がって、母とのことをよく思い出すようになった。
母が妻を気に入ったのは勿論であるが、私が松山以外の他府県の人と結婚すると
松山に帰らない懸念もあったと妹が言っていた。
色々な出来事を偶然の重なりのように思っていたが、人生の必然のように動いて
いたんだと今になって感じる。
母は大正8年(1917年)生まれで、平成16年(2004年)86歳で亡くなった。
今生きていれば108歳である。
父とは3歳違いである。父が20歳頃結婚したというから17歳の花嫁だったんだろう。
お互いに会ったこともなく、親が決めた縁談だったらしい。
父の母が一度観察的に母に会い、母も分からぬまま縁談が進行し、結婚に至った
ようである。
父はその頃大学生だったというから、お互い親の意向に沿っていただけで、自分の
思いとか意見を言えなかったのであろう。
父の母は、松山で『いのじ(字体不詳)』という料亭を経営していた。
当時大学にいける人はごく少数で、父の言を借りれば、同学年で大学に進学したのは
二人だけだったらしい。東京での生活費、学費を出せる家庭など少ない時代であった。
たぶん経営は順調で繁栄していたのであろう。父の母としては、自分の店の後継者、
今でいえば若女将として母が欲しかったのではなかろうか。
たぶん父の妻としての適格性より商人としての母の性格を見抜き、料亭を切り盛り
する若女将として期待したように思える。
私の兄が誕生するまでの約10年ほど、父の母から料亭の経営を叩き込まれたのでは
なかろうか。
母は父の母を社会人になってからの恩師として尊敬して暮らしていたと思う。
第二次大戦が終わり、焼け出され、母方の実家の側にある家を借り、戦争から帰還
した父は地方公務員に就職し、親子6人の慎ましい生活がずっと続くことになる。
後年、父の母は脳卒中を患い、大変な看病を母がするのであるが、一言の泣き言
恨み言を聞いたことがない。献身的に看病する母の記憶しかない。
私達子供からすると母に苦労を掛けさせる父の母を邪魔者扱にしたくなる事さえ
あった。
母は自分の苦労を病人に当たることもなく、本当に実の親のように面倒を看た。
今から思ってもあのような看病は誰にもできない、それを苦にしたりする言葉を
一言も口に出さなかった母を誇りに思い尊敬している。

2025.06.22 13:56 | 固定リンク
令和7年6月6日 愛のキューピット

妻を亡くした私の事を心配して電話やメールをくれる人が何人かいる。
中でも兄妹の身内は特に心配してくれ、妹は時々千葉から出向いてくれ身の回りの
手伝いをしてくれる。
食事の後片づけ、洗濯、料理など生活必須項目を何とかこなすが、掃除機などは
ほとんどかけない。綿埃など自然蓄積する。でも後回しの末、やらず仕舞いである。
妹がやってきてくれ、隅々の掃除をしてくれ、日常が洗われたように気持ちよくなる。
二人で子供の頃の話をする。私はほとんど覚えていないが、よく知っているし、よく
覚えている。
男は年齢を重ねると親と話さないが、女子は母親とは、表の事、裏の事もよく話して
いたんだと感心する。
でも、私と妻が出会ったことの記憶が飛んでいた。
妻と初めて出会った写真が出てきた。妹と妻と3人で映っている。
11月27日、私が23歳、妻が22歳、写真では素足にサンダル履き、暖かかったのだろ
う、でも素足にサンダル履きというスタイルは恋人関係でないことが分かる。
初めての出会いで、妹とその友達を気軽に案内したという雰囲気。
事実、お互い、その通りであった。その年の暮れに帰省し、年末から、正月にかけて
結婚の意識がお互いに芽生え、手も握らないまま結婚の約束をする。
後から考えると、妹と妻が関西旅行で私を訪ねたということは運命的な出来事であ
った。
その出来事をあの記憶のいい妹が覚えていないという。びっくりした。
『なんで関西旅行に行ったんだろう。それも義姉さんと・・・』
10月、松山の秋祭りの日に義姉さんが遊びに来ていた。『あの時母親があの娘はいい子
だとしきりに言っていた。』
『母親が二人で通兄ちゃんのところに旅行に行ったら』と暗示に似た指示をしたんじゃ
ないのかしらと妹の推理。
私は母親の期待通り、心が動き、即断即決の結婚に走ったことになる。
本当に親孝行の息子である。また母親の選んだ目に寸分の狂いのない伴侶であった。
妻との50年間の結婚生活、感謝している。
今まで、妹が妻と私の愛のキューピットと思っていたが、真実は母親だった。
妻の事、母親の事、懐かしさがこみ上げる毎日である。

2025.06.06 18:32 | 固定リンク
令和7年4月29日 弘前 桜祭りの後

4月22日、23日 強行軍、弾丸旅行であったが、弘前の桜を見に行った。
よく考えてみると、出張以外の一人旅行は初めてのような気がする。
映画や演劇鑑賞も一人で行くことはない。旅行も妻と二人か会社の旅行かグループ
旅行である。
唯一は、しまなみ海道を一人で自転車横断したことだけでなかったか。
あの時も妻が先に四国松山の兄宅で待っていてくれたから、純然たる一人旅でなか
った気がする。
行きは朝7時25分福岡発の羽田経由青森空港着、帰りは翌日15時15分青森発の羽田
経由福岡空港。
それぞれの空港までの時間などを考えるとそんな無理な旅行しなくても   と
自分でも思ってしまう。
でも、正月の夢、妻の姪の夢などを考えると絶対やっておかないと後悔すると思っ
た。
事実行ってよかったと思っている。頂上に雪をいただいた岩木山、何千本もの
桜、沢山の桜の品種、盛り上がるような満開の桜、城内の観覧舟から見た景色、
ガイドの青森弁、にぎやかな屋台、一人であったが満喫した。
妻の写真を見ると当日は雨模様のようであった、今回は上天気、妻も喜んでくれた
と思う。
少しづつ自分の悲しみの気持ちが溶融しているように感じた。感じたいと自分が
望んでいるといった方が正確かもしれない。
とにかく、生前に言っていた約束の一つが達成できた。
妻の服の整理は妹がやってくれたが、まだ残っている。思い出として残していた
方がよいとの妹の配慮。その他妻の手帳や手紙などの整理に一切手を付けていない。
手を付けれないでいる。
旅行から帰り、整理しようと思い、少し手を付けたが、妻の文字を見ただけで
涙が溢れ、進まない。もう少し時間がいる。
いいこともあった。園長から依頼を受けて、妻は永年、保育園にお茶を教えに行って
いた。卒園式の集合写真が沢山残っている。どの写真の笑顔も素敵だ。
ただ、集合写真だけに小さい。高校にも教えに行き、生徒数人との写真もある。
子供や、生徒に教えることにやりがいを感じていたと今になって強く思う。
そういえば、我が家に園児を連れてきて、炭火で沸かした本格的お茶作法体験など
もしていた。子供が好きだったんだろうと思う。
整理しようと思った箱から、小さな封筒が出てきて、表に『お茶の渡部先生へ』
と書いてある。
園児と妻の二人の写真、この写真の笑顔がいい。最高の笑顔である。
屈託のない園児とのツーショットだから、妻の笑顔もいいのだろう。
整理はできなかったが、この写真を妻が届けてくれた。また、宝物が増えた。

2025.04.29 10:32 | 固定リンク