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地域密着で取り組む住宅メーカー。
安定した経営と確かな家づくりを続け、
快適な住まいを提供いたします。
4月22日、23日 強行軍、弾丸旅行であったが、弘前の桜を見に行った。
よく考えてみると、出張以外の一人旅行は初めてのような気がする。
映画や演劇鑑賞も一人で行くことはない。旅行も妻と二人か会社の旅行かグループ
旅行である。
唯一は、しまなみ海道を一人で自転車横断したことだけでなかったか。
あの時も妻が先に四国松山の兄宅で待っていてくれたから、純然たる一人旅でなか
った気がする。
行きは朝7時25分福岡発の羽田経由青森空港着、帰りは翌日15時15分青森発の羽田
経由福岡空港。
それぞれの空港までの時間などを考えるとそんな無理な旅行しなくても と
自分でも思ってしまう。
でも、正月の夢、妻の姪の夢などを考えると絶対やっておかないと後悔すると思っ
た。
事実行ってよかったと思っている。頂上に雪をいただいた岩木山、何千本もの
桜、沢山の桜の品種、盛り上がるような満開の桜、城内の観覧舟から見た景色、
ガイドの青森弁、にぎやかな屋台、一人であったが満喫した。
妻の写真を見ると当日は雨模様のようであった、今回は上天気、妻も喜んでくれた
と思う。
少しづつ自分の悲しみの気持ちが溶融しているように感じた。感じたいと自分が
望んでいるといった方が正確かもしれない。
とにかく、生前に言っていた約束の一つが達成できた。
妻の服の整理は妹がやってくれたが、まだ残っている。思い出として残していた
方がよいとの妹の配慮。その他妻の手帳や手紙などの整理に一切手を付けていない。
手を付けれないでいる。
旅行から帰り、整理しようと思い、少し手を付けたが、妻の文字を見ただけで
涙が溢れ、進まない。もう少し時間がいる。
いいこともあった。園長から依頼を受けて、妻は永年、保育園にお茶を教えに行って
いた。卒園式の集合写真が沢山残っている。どの写真の笑顔も素敵だ。
ただ、集合写真だけに小さい。高校にも教えに行き、生徒数人との写真もある。
子供や、生徒に教えることにやりがいを感じていたと今になって強く思う。
そういえば、我が家に園児を連れてきて、炭火で沸かした本格的お茶作法体験など
もしていた。子供が好きだったんだろうと思う。
整理しようと思った箱から、小さな封筒が出てきて、表に『お茶の渡部先生へ』
と書いてある。
園児と妻の二人の写真、この写真の笑顔がいい。最高の笑顔である。
屈託のない園児とのツーショットだから、妻の笑顔もいいのだろう。
整理はできなかったが、この写真を妻が届けてくれた。また、宝物が増えた。
志井川の堤の桜並木が私が暮らしているこの周辺では一番きれいと思う。
川面に垂れ下がる小枝の桜の花びらは見ごたえがある。
満開の桜のトンネルの時、花吹雪の桜が散る時、花いかだの桜の花びらが流れてゆく
時、この10年ほど楽しませてもらった。毎年毎年、桜の下を歩いた。懐かしい。
妻の実家から果物が届いた。お礼の電話をすると、妻の姪が妻の夢を見たという。
『お姉さんの夢を見た。通さんが仙台に転勤する。』という夢だった。
早速、妻のお墓参りに行ってくれたといった会話であった。
仙台、私にとっては縁もゆかりもない場所であったが、急に思い出した出来事がある。
妻の友人が、定年を迎え、地元の仙台に帰った。仲良しだった4人の女子会仲間が
その友人の故郷仙台、東北へ女子会の旅をした。
その時に弘前の桜が見事で、美しかったと話してくれた。いつか一緒に行こうと
話してくれた。
このことを急に思い出した。
正月の私の夢の中で『旅行に行くから腕時計の電池交換の妻からの依頼』、今度は
姪の夢の中で、『通さんが東北の仙台に転勤』
何か繋がっている。
私と一緒に東北の桜見物に行こうと誘っている。そうに違いないと思った。
弘前の桜の満開は、20日過ぎ。その頃に仕事のスケジュールがつけば、弘前に行き
たい。
千葉の妹から電話があり、一連の出来事と弘前の桜の話をした。
東京発の弘前の桜ツアーがないか調べてと頼んだ。結果はもう申込締めきり。
3月ごろの申し込みでないとダメの返事。
仕方ない、ツアーに参加できないのなら、弾丸旅行でも妻と一緒に弘前の桜見物を
決行しよう。今はこのように思っている。
仕事の時間は仕事の事だけ考えられているが、休日は家事と買い物と掃除と妻との
思い出を探すばかり、なんとも未練がましいメソメソした生活である。
2年間ほどは気持ちの切り替えが難しいと同じ境遇の友人が語っていたがまさにその
通りの日常である。
早く気持ちを切り替え、猪突猛進の本来の私に帰らないと妻からも愛想づかしされ
そうなので、頑張りたいと思っている。
60年近く前、倒産したスーパーマーケットの元ダイエーが『主婦の店』という名称で
全国展開をし始めた。
スーパーマーケットはまだ庶民にはなじめず、一般的な買い物は町中の小売店が全盛
であった。
デパートもあったが、それは高級品を買う特別な場所で、なかなか行く機会もなかった。
妻の実家は野菜果物の仲買、小売りをやっており、比較的裕福な家庭であったと思う。
我が家は貧乏で、戦災で母方の実家に疎開し、そこの空き家に暮らしていたので、住居費
がかからないおかげで、かろうじて生活が成り立っていたように思える。
貧乏であるが、子供たちの友人の出入りの多い、にぎやかな家庭であった。
これは多分、気さくで人の良い母親の性格が子供たちの友人を呼び寄せたと思っている。
妻は4人兄妹の末っ子で一番かわいがられ、何不自由なく暮らしたと思う。
だから、結婚して当時は料理とか本当に素人だったと思う。残念ながらその頃の料理の
記憶が全くない。
前のブログにも書いた記憶がある。私のお客様に婦人の友の会員の方が数人いて、
どの方も素晴らしい人物だったので、お願いして婦人友の会に入会させてもらった。
家事全般、家計、料理、菓子作り、家庭生活、そこで教わったと思う。
その頃からの料理やお菓子、ケーキは記憶にあるので、たぶん感動したのだろうと思う。
家事料理だけでなく、色々な影響も得た。
婦人の友では、地区ごとの寄り合い、『最寄(もより)』と言っている、月例の会合が
ある。
会合の具体的内容は分からないが、いつも読書会があると聞いていた。
羽仁もと子さんの著作を読み、日常の改善や過ごし方について皆さんで話し合って
いたのでなかろうか。
時々妻は話し合ったことを私に語ってくれた。
それらの中で私の記憶に突き刺さったことが二つある。
ひとつは、教育の話である。
人からの受け売りであろう。こういう言葉を言った。
『子供は親の思うように育たないが、親のように育つ』
教育というのは自分の背中、自分の生き方で行うものだという言葉であった。
あれこれ、立派なことを言っても、人が伸びるわけがなく、伸びるのは自分次第であると
同時に教える側、つまり、親の方の生きる姿勢にある。
『親のように育つ』という言葉を聞いたときに、自分の背筋がピンと伸びた。
会社でも経験と実績を重ね上役になってゆく。しかし、上役になっても人を指導するのは
おこがましいと思っている。
黙っていても伸びる人間は伸びる。重要なことはその人が伸びるために上役が常に前向きで、
挑戦的で、家族を大切に、仲間をいとおしく思うように強くて、優しい日常を送れて
いるかどうか。自分自身も理屈だけの人間に成り下がっていないか、反省している。
妻がいればチェックしてくれるはずなのだが…。
もう一つの事柄については機会があれば書きたいと思っている。
納入業者の方から、『社長のブログは、自分の思っていることが書かれていて
ユニークで面白い。』と言われた。面と向かっての会話の最中だったので、悪い
評価の話ではなかったと思う。
自分のブログを注目している人もいるんだと思ったし、商売の関係上、私の性格や
信条を確認するための情報源として見ているんだと思った。
私としては、自分の仕事のために書いていない。その時々感じた事、思った事を
書きつづっている。これらが自分の仕事に好影響なのか悪影響なのか検証した
事がない。
また仕事の事だけ書けば十数年も続かない。続いているのは身近な事を書いたから
だと思っている。今後もこの方針で行こうと思っている。
妻の病気が分かり、看病の甲斐なく亡くなり、亡くなって1年4ヶ月、発病から2年が
経った。
プライベートでは、家内の事ばかりしか思えない、かといって家内の遺品を整理
しているかと言えば手を付けられないでいる。
最近やっとアルバムに整理していなかった写真を見た。
家内と初めて会った日の写真が出てきた。1970年11月23日、今から55年前、私の
妹と一緒に関西旅行に来ていた時、兵庫の六甲牧場での写真であった。
その時は結婚など考えもしなかったが、その年末に松山に帰省した時に結婚を意識
し、1月3日大阪に帰る松山港でプロポーズした。
手も握ったことがなく、2回目の出会いでの即断だった。二人とも若かった。
以前はなんとも思わなかったが、経済力が未知数の私の元に嫁ぐ決心を即断した
彼女もすごい度胸の人だったと感心する。その後苦労はしたが、人並みの生活は
維持できた。彼女の内助の功が大きい。彼女がいたから仕事に邁進でき、それを
続けられた。
何故続けられるのか?考えた。
一緒に明日を語れる人がいるから続けられるという結論に落ち着いた。
それは家族である。
一番身近な家族のために頑張る。家族とともに明日を語る。
思い出も明日を語る前章である。自分一人であれば挫折しやすいが、家族のため
なら続けられる。家族の明日のため、一日一日を有意義に過ごしてもらいたい。
家族が大切だとつくづく感じる昨今である。
今年の正月も故郷の松山に帰省し、兄家族と一緒に新年を迎えました。
兄弟(妹)4人とも健在で、年に2回、盆と正月に顔を会わせるのが年中行事になっ
ています。
しかしそれぞれ年相応なので、いつこの行事が終わるのか分かりませんが、皆が
元気なうちは続けたいと思っています。
松山にいる間は、兄家族と温泉に行くのが最大の楽しみで、心も身体も癒され
ます。
子供の頃、道後という土地に暮らしました。道後温泉がある所です。
その頃、家にお風呂がある家はほとんどなく、皆んな道後温泉に行きました。
湯札(ゆふだ)という一か月定期券を購入し、一回行く都度パンチで穴をあけ、
回数を計算されました。小学生のころまでは家族連れだって田んぼの小道を通
いました。
その頃空には、オリオン座が輝き、天の川が手に取るように見えました。
今は、天の川など全く見たことがありません。
道後温泉では、皆、裸の付き合いですから、金持ちも貧乏人も、警察官もやくざも
いがみ合うこともありません。
松山の人が比較的優しくて、ゆったりしているのはこのような環境で育ったせい
かもしれません。
中学生になってからは近所に住む、中野の啓ちゃんという友達と毎日誘い合って
道後温泉に通いました。
高校、大学の頃も通ったはずなのですが、その頃の温泉の思い出が全く出てこない
のです。部活動や勉強やもっと関心のある事の記憶が、変化のない温泉の記憶を
消しているのだと思います。
温泉三昧の三が日を松山で過ごし、小倉に帰ってきました。
初出社の5日の朝、妻が夢の中に出てきました。
湯上りのリラックスした表情で、悲しさや辛さは全く感じられず、笑顔で、『旅行
に行くので腕時計の電池交換をしておいて』と依頼されました。
そこで夢から覚めたわけですが、超嬉しかった。今まで従妹や妹は妻の夢を見た
という報告を受けていました。私には全く出てきてくれないので、たぶん私が
亡くなる寸前迎えに来る時にしか出ないのだろうと思っていました。
それが、5日の朝出てきてくれたのですから。この2年間で一番嬉しかった出来事
でした。
早速、電池交換をした時計を仏壇に飾りました。
このことを妻のお茶関係の友人に話すと、『天国に行く準備』という見解を聞き、
なるほどと思いながら、いつまでも私のそばにいて欲しいと思う気持ちから、仏
壇の時計を、別の場所に飾ってある妻の写真の前に置き直しました。
まだまだ、悲しさ寂しさは過ぎ去りませんが、一つ山を越えられた初夢でした。