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地域密着で取り組む住宅メーカー。
安定した経営と確かな家づくりを続け、
快適な住まいを提供いたします。
8ヶ月間の闘病生活を経て家内が永遠の旅に旅立った。
悲しくて、寂しくて仕方ない。言葉を出すと涙が出てしまう。
家内の事を言っているわけでない、病気のことを言っているわけでない
普通の日常会話なのに、涙声になる、涙が出る。言葉が嗚咽に変わる。
寂しくて、寂しくて、仕方ない。
75歳であった。最近の実年齢は、7割掛け、8割掛けと言われているから、
7掛けならば53歳、8掛けならば60歳。まだまだ二人で旅行にも行けた
はず。
明るくて、理知的で、気遣いと感謝の気持ちを持った私には過ぎた家内で
あった。料理も上手であった。何よりも私の仕事の最高の理解者で、最大の
応援団であり、たった一人の仕事の相談者であった。
仕事の構想を語り、手順を述べ、組織、体制までいろいろ話した
仕事のやり方が自分の独りよがりになっていないか、チェックするために
仕事について話した。彼女の反応は非常に参考になった。
家庭に仕事を持ちこまないほうがいいのかもしれないが、私は全く逆で、
彼女も仕事について関心を持ってくれた。
その相棒が突然いなくなった。
これからの日常がどうなるのか予想がつかない。2歳になる愛犬がいるので
その面倒をみながら、日常を少しづつ受け入れていかないといけないのだろう。
何故、彼女の癌に気づかなかったのか?
毎年会社では健康診断が義務付けられている。家族の健康診断の手配もして
くれている。
毎年、健康診断に行くようにと言ってきた。彼女は健康に自信があったのか、
忙しかったのかここ十数年受診していない。
でも、近所のクリニックでは2か月に一回のペースで血液検査を受けている。
胃潰瘍の薬も処方されていた。
胃潰瘍の進化系が胃癌だと私は思っている。
臨終の数日前、健康診断に行け、行けというだけで、自分が連れて行かなかった
ことに気づいた。
健康診断を二人の年中行事に組み込んでおれば、早期発見、治療もできたのに、
悔やまれてならない。
こんな簡単なことに気づかないなんて最低の夫だ。死ぬ直前に分かるなんて
冷たい男だ。
最後の抗がん剤治療を受けた時、血液検査の結果を見て『検査結果はなんとか
基準をクリアしているから、抗がん剤を打ちましょう』と主治医が言った。
抗がん剤の医者の所に行き、2次診断を受けた時、『膀胱に炎症反応が出ている。
主治医は何と言っていましたか?』「数値はぎりぎりだが打ちましょう」と
言ってました。『…そうですか。それでは打ちましょう。』
あの時に体に炎症反応が出ているので今回は中止しましょうと主治医が言って
くれれば、悪夢のような19日間は来なかったかもしれない。
緊急入院して点滴だけで命を永らえた19日間、辛かったと思う。
『水』『アイス』『ごはん』と言った言葉が頭から離れない。
こんなことすら叶えてあげられない。苦しくて仕方ない。
書くことで少しづつ日常を創ることができるのではと思っている。
もう少し、自分が頑張らねば、家内のためにも。
妻が病気になり、家事全般を自分でやるようになった。
独身時代も含め、今まで自活ということをしたことがない。
独身時代は寮があり、寮母さんが面倒を見てくれ、単身赴任も1年半ほど経験したが、
毎週洗濯物持参で帰り、食事は外食で済ました。本格的家事は今回が初めてである。
家内の有り難味が身に染みる。
私が何々を食べたいと言えば、数日後には必ずその料理を作ってくれる。
食事後、私はテレビを観るだけ、彼女が後片付けをする。
洗濯物は出すだけ、取り込みもたたんで直すこともしない。どこに何が入っている
のかも気に留めない。全て家内に聞けばよいと思っている。
その生活が一変した。
幸い今はトイレには自分で行ける状態であるが、寝ているだけなので、筋力が落ち
階段は一人で登れない。支え引っ張ってあげないと無理である。
今の自宅は3階建て住宅で、エレベーターを設置したのがよかったとつくづく感じて
いる。
家内は手をつないで歩くことなど絶対にしない人です。恋愛中も結婚後も手をつな
いで歩いた記憶がありません。皮肉な事に今は家内と手をつながないと歩行困難な
状態で、病院や運動を兼ねた近くのマーケットでの買い物は手をつないでの歩み
です。
なんとか回復して元の生活が取り戻せることを祈り願うばかりです。
家内が家事をして、私がそばでサポートをする。
このようになればいいなぁ、できれば小旅行でもできるようになれば…。
当分は私が家事の達人になり、彼女に心配させないように、家事が笑いと笑顔の
ネタになるように頑張りたいと思っています。
50年ほど前になる。大分市で住宅営業として働き始めた。
前職は、小さな商社の営業で主には金属洗浄剤を販売していた。
販売品目は新商品で、販売ルートから探さないといけないものでした。
主な需要先は分かっていたので、その方面に飛込みによる新規客の開拓しか方法
ありませんでした。大きな工場、小さな工場飛込み訪問を繰り返しました。
現在では、セキュリティの関係で工場の中に入れてもらうのが困難で、私がや
っていた営業はできないと思う。幸いそのころは、紹介状がなくても購買の人
に面談ができた。
松下電器産業、ミノルタカメラ、凸版印刷、製缶工場、繊維の染み抜き工場、
…大きな工場、小さな工場、歩き回り飛込み商談を重ねた。
金属を洗浄するなど一般では考えられないのであるが、製品を造る時には必要重要
な工程で、そこに使う溶剤を販売した。
溶剤は、東洋曹達(現在の東ソー)の製品で、そのメーカーの人と一緒に近畿一円
を走り回り、2年間この仕事に没頭した。
親友は学生時代の友人が多いようであるが、私はこの方と2年間交際し、一生涯
の友を得た。この友を得るために仕事を与えてくれたような気がする。
その後、結婚相手が決まり、彼女も松山なので、大阪で暮らすより、故郷の松山で
暮らしたいと思い転職を決断した。
松山で面接をし、採用は決まったのであるが、勤務地が大分で、今更元の会社に
帰るわけにいかず、人生の流れが松山に向いていないのかもと考え、大分に赴任
した。
大分の地で住宅営業の第一歩を開始した。
住宅はお客様の家族生活に深く関わる仕事で、ものすごくやりがいを感じた。
前職が工場が相手で、最終製品が世の中でどのように活用されているかが、あと
一歩不明瞭であったが、今度の仕事は個人の現在生活、将来生活に直結している。
エンドユーザーにこれほど深く関わる仕事はないだろうと思う。
家計面、家族観、仕事観、人生観、本音で語り合わなければマイホームは完成
しない。
販売術もあるが、真の親切心がなければ完成しない。売る側の人間性向上が必須
の仕事である。奥が深い。ごまかしなどもってのほか、誠心誠意、正直、親切心
が基本の仕事である。
大分では沢山の方々に住宅を建てていただいた。
お客様の中に、『婦人之友』の会員の方が数名いて、どの方も家族や家庭に関する
考え方がすごく立派で共感できた。
家内をその会員にしてもらいお付合いをさせていただいた。
その会が、羽仁もと子さんが主宰する、婦人之友の会である。
毎月送られてくる雑誌『婦人之友』を見ていると、創業120年と書いてあった。
120年間続く組織、120年間続く雑誌。圧倒される。
羽仁もと子さんは、日本で初めての女性記者、1873年に青森で生まれ、1957年に
亡くなっている。亡くなるまで婦人之友の雑誌の巻頭に、友への手紙というテーマ
で文章を書き続けたということである。雑誌創刊が1903年、亡くなったのが1957
年であるから、54年間毎月書いたことになる。驚嘆です。
友の会は、最寄り(もより)という小集団活動があり、話し合ったり、家計調査を
したり、家事や料理研究などをしていたように思う。私はその場に行ったことが
ないので、家内の言動からそのように推察している。
家庭のあり方や家族の在り方について非常にまじめで、家内からの話で私も大いに
感化を受けた。
自由学園という学校も経営しており、その校舎がフランクロイド・ライトが設計
したと聞いて、ますます愛着を感じた。
この25年ほどは家内が趣味の茶道の活動が忙しく、友の会活動はただ会員になっ
ているだけであるが、私としては婦人之友の活動の方が社会貢献できる気がして
いる。
羽仁さんは84歳で亡くなったことになる。その人生は、前へ、前へ、いつまでも青春
バイタリティを貫いたように感じている。
私の目指すところである。
住宅業界に関わって51年になる。半世紀。
営業で入社して、ずっと住宅営業の事ばかり考え続けている。
店長になり、所長になり、支店長になり、今は社長をしているが、どの立場の時にも
第一線の住宅営業の事ばかりしか考えていなかった。
それでよく社長が務まるものだと自分でもあきれている。
普通、売り上げや利益を何年計画でこのようにするとか、この事業をこのように拡大
してゆくとか壮大な計画を言うのが社長だろうと思うが、そのような計画をしない。
希望や夢はあるが、それを計画に落とし込み、実行策を練るようなことまではしない。
大雑把な社長である。
一件の見込み客を増やす方法、その育成策、そして一件一件の戦いに勝つ方法、
心構え、仕事への日常の姿勢。こんなことしか考えていない。
最近、自分の後を託さないといけないと思い、次の時代を背負うであろう人と話す
機会があった。私など足元にも及びつかないほどよく考えているし、緻密である。
組織論にも熟知している。無知な私がよくも20年間、社長業をやってこれたと思い
不思議に思う。
振り返えると私の想いに感じてくれる人が集まり、同志的結合になり、一つの方向に
向いて団結した。人が集まってくれたのが奇跡であるように思える。
遠大壮大な計画はなかった。とにかく頑張る。あまり先を見ず、今を頑張る。
こんな51年間であった。
今も今を頑張らないといけないと思っている。
順風満帆などない、いつも逆風。でも知恵を出し、行動すれば必ず道は見え、開けて
くる。
コロナ後消費行動は全く変わった。でも人の感情は変わっていない。
『先義後利』お客様の幸せを先に考えて、正しいことをする。ごまかしや嘘つかない。
利益は後から必ずついてくる。
『正直に、親切に、愉快に』人とのお付合いの原理原則、良いお付合いが発展の根本。
人生で家を2軒も3軒も建てる人はいないが、建てた人の周辺にはまだ建てていない人が
無限に存在する。それ方々をご紹介してもらえるのは、良いお付合い。人間力。
こんなことを思いながら今日を頑張る。
先月5月26日高校の同期会があったので久しぶりに松山に帰省した。
年賀状には『いつまでも 青春!!』と書くことが多い。
現役で仕事している間は、今も青春中と思って過ごしているが、仕事の青春と
高校時代のはちきれるような夢と希望の青春、淡い初恋のときめきと失望の
青春は全く異質であると感じた。
仕事の青春には必ず結果を要求され、それも良い結果でなければ充実感がない。
10代の青春には良い結果でも悪い結果でも、良い想い出として記憶される。
全てが懐かしい。
高校時代の同期は480名位いたと思う。今回集まったのは36名であった。
以前はオリンピックの開催の時に、4年周期で開催されていたのであるが、
お世話役の幹事の方が亡くなり、自然消滅的に終わっていた。
今回ゴルフ仲間が中心になり、ゴルフ表彰式の延長で同期会を復活させたら
しい。
年賀状に集まりがあったら知らせてほしいと出していたら、連絡があり今回の
帰省になった次第。
卒業後60年近くになるので物故者も多いが、何とか元気な間は会があれば
参加したいと思っている。
幸い、つぎのお世話役も決定したので次回はもっと多くの人と会えるのではと
期待している。
私のイントネーションは北九州地区の音程と違っていて、いつも関西出身です
かと聞かれる。松山弁、伊予弁のイントネーションは大阪弁と似ているのであ
ろう。
同期会では、伊予弁が会場内を満喫交錯し、一気に高校生に逆戻り、徐々に
白髪、禿げ頭、しわ顔が高校時代の顔に変化していった。
楽しくて、懐かしくて、やはり松山はいいなぁと感じたひと時であった。