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地域密着で取り組む住宅メーカー。
安定した経営と確かな家づくりを続け、
快適な住まいを提供いたします。
今年もあと数日で終わります。
運の良かった年、そうでなかった年、その思いは全て自分の心の中にあり、自分の
考え方で決まると思っていました。
私は年回りとか、今年の運勢とか、おみくじとかあまり気にしないタイプの人間
でした。
今も運勢とかは気にいたしませんが、妻の病気が分かって、闘病中の9ヶ月、亡く
なってからの1年3ヶ月、およそこの2年ほどは、私の今までの運命のなかで最悪の
期間でした。何をしても喜びがなく、喜びがないから芯から真剣になれず、作業を
するだけ、こなすだけといった塩梅で情けない状態だったと思います。
周囲の人たちにも大変迷惑をかけたと思います。
20日間ほど前、30数年前に社員教育をしてもらった方から突然お電話をいただき
ました。
その方は税理事務所を経営されていて、講師もなさっている方です。会計学の講師
ではなく、人としての生き方、心構え、人生の姿勢を教えてくれる方です。
当時の事業所で社員全員の教育のため講習を依頼しました。
人生では色々学び、自分が変わる場面が幾度かあります。その先生に会った時期も
この場面であったと思います。内容も中村天風先生の言っていることと合致し、私の
頭の中に染み入るように入りました。
30数年ぶりに税理士の先生からの電話、先生が書類整理をしていた時に講習が終わる
都度、私が先生に出していたお礼の手紙を発見し、懐かしくて電話したと話してくれ
ました。
30数年前の事が一度によみがえりました。あの時も転勤して、当時の事業所の再建
に頭を悩ましていました。
仕事の技術も大切であるが、心構えはそれ上に大切と思い、たまたま知り合った
先生に心構えの研修をお願いいたしました。社員の心構えが変わったかどうかは
測定できませんが、業績は良くなりましたし、私自身が以前にもまして前向き思考に
なりました。
先生からの思いがけない一本の電話が、もう一度やり直せ、もう一度喜びを感じる
人生を作れと暗示しているのでないかと思えました。
来年早々に大分にいる、税理士の先生に会う約束もいたしました。
この2年間の気持ちを切り替えて来年は原点回帰を図ろうと思っています。
皆様におかれましても来る来年がよき年でありますようお祈り申し上げます。
やっと紅葉の季節になりました。と言っても自分自身は赤緑のグラデーションの
美しさは観たことがありません。
赤緑色弱でその色の判別ができません。銀杏の黄色はよく分かるので、黄色の黄葉
は目立ちます。以前、九重(くじゅう)の大吊橋と大イチョウの黄葉見物バスツアー
があり、妻と参加しました。懐かしく思い出されます。
最近、天国についてよく考えます。
天国の模様はどうなっているのか?
以前、天国には境がなく、大空間、大平原で、過去出会った人や動物が朗らかに、
楽しく暮らしている。妻は自分の親たちと楽しく暮らしている。こんな想像をして
ました。
最近は、いやそうでなく、天国にも今の住居、近隣環境と全く同じ所があり、そこ
で、2代目の愛犬キャリーと暮らしている。
このような想いを確信できるようになりました。
私が天国に行っても間違わないように同じ環境を作っている。
今の家は大分から転勤で北九州に来た時、借家住まいが嫌で早く自宅を建てたいと
思い、建築場所を2回、妻に提案しました。
そのどちらも了承せず、3回目に提案した場所が今の住所で、ここは賛成してくれ
ました。彼女が選んだ場所で、1軒目の家を建て、その後転職し、その会社が同業種
だったので、この会社を発展させる意気込みを示すためと思って、15年しか住んで
いなかった家を建替えました。
今から思うと無謀だったと思います。しかし、その無謀さが自分の気合を持続させた
のも事実です。
また、建替えた家には本格的茶室と言えませんが、稽古するくらいの茶室の態様を
整えました。妻も喜び、自宅で仲間や弟子たちとお茶の稽古を楽しみました。
妻の想いのある場所、思いのある建築でした。
ですから天国でも同じ環境で暮らしていると確信しました。
今、自宅にある小さな仏壇を通じて彼女は天国と現在を行き来しているように思って
います。
そのように考えると気持ちが少し楽になるようになってきました。
3代目キャリーを見送り、会社内容をもっとよくすることが私の使命と思い、もう
しばらく頑張ろうと思っています。妻もそれを期待していると思っています。
谷村新司作詞・作曲『いい日旅だち』という歌がある。山口百恵が歌ってヒットした。
旅行ブームを引き起こした。
旅は思い出を作る素晴らしいイベントである。
日常を離れ、特別な数日間は、写真も撮るし、記憶に残り、後日楽しさを語り合える
素敵な行事だと私は思っている。
先日、社内旅行をした。旅行会社の話では、社内旅行をする会社は年々少なくなって
いるらしい。
会社が負担する費用の削減と社員自体が全員で行きたがらない個人の風潮がある。
こんな理由で社内旅行は減っているらしい。
当社では2年に一度社内旅行をすることにしている。
悪い評判はない。逆に楽しかった、次の旅行を楽しみにしているという言葉が多い。
今回の旅行も家族連れで参加の人がいた。
ありがたい。これこそが私が目指している会社の一つの形態である。
仕事と家庭は別であるが、経済的な面では大いに関係しているし、日常生活でも
切り離せない部分は多い。また友人関係でも学生時代よりもずっと濃密である。
それを公私は別々というのも無理がある。
ならば、楽しい仕事関係、仕事に関わる家庭関係を考えてもよいと思い、旅行を
続けている。
今後もできる限り続けたいと思っている。
妻も社内旅行にはいつも一緒に行ってくれた。
義理とか義務でなく、彼女自身も楽しんでくれた。
そのほか二人でいろいろな旅行をしたが、それらが一番の思い出になっている。
今回は初めての一人の社内旅行であった。
今まで、彼女といつも連れだってオプションツアーに行ったが、今回は一人なので
それほど楽しめなかった。
語り合える人がいないということは、思い出を作ってもしようがないという感覚に
なり、真から旅行を楽しむことができなかった。社員には申し訳ないと感じながら
どうしようもできなかった。
思い出は一人では楽しめず、語り合える相手がいることが大事と初めて気づいた
旅行であった。
もう1年3か月になろうとしているのに、一人だけの生活に楽しさを見いだせないで
いる。
日本各地に自生する山野草である。10月ごろに慎ましい花芽を開花する。
妻は4人兄弟の末っ子で生まれ、長女とは親子ほどの年齢差があり、親には歳とって
生まれた末っ子であったから、大事に育てられたと思う。
結婚の許可を得て、彼女の父君に手紙を書いた。貧乏だけど、幸せにするといった
内容でなかったかと思う。彼女の父君から手紙をいただいた。まだ持っている。
手紙には、手元に置いておきたかったが、真面目そうな人物だったので、妻の
要望を認めたと書いてあった。近くに住んでくれる人を希望した。
でも、旅をする私の元に嫁ぎ、今は北九州に住んでいる。
最初は心細かったと思うが、どの地域でも周りのいい方に恵まれ、比較的快適な
日常が作れた。
新婚当初、料理も満足にできなかった。私のお客様で、『婦人之友の会』の会員の方が
数名いて、どの方も素晴らしい人物で、家族それぞれが自主的だがお互いの思い
やりがあり、家庭としても心が大きく、豊かであった。
お願いして、妻を『婦人之友の会』の会員にしていただいた。
そこで、家事、料理、お菓子作り、家庭の在り方、家計のきり回し、いろいろ学ば
せて貰った。末っ子のお嬢さんが立派で頼り甲斐のある主婦に変身していった。
私が何とか仕事をこなせるようになったのは、彼女が精神的にも経済的にも、
支えてくれたおかげだと思っている。
『友の会』で家庭の心と経済の基本を身につけてもらったからだと思っている。
北九州でも、友の会を続け、仲良しができた。仲良し仲間と『みずひき草の会』
というグループを作って、女子会のような旅行をした。
転勤で仲間が散り散り(チリヂリ)になっても続いた。
一人は仙台、一人は大坂、一人は山口、北九州は妻ともう一人の5人。
どこに行っても全体旅行費を5等分、平等負担。その運営を見ていて、だから永く
続くんだと感じた。いい仲間だった。
『みずひき草』の旅行で、東北の弘前城の桜を見に行き、その感動を興奮した様子
で話してくれたことがあった。いつか妻と一緒に行きたいと思った。
仲間の相方が亡くなり、旅行も無くなり、今度は私の妻が亡くなった。
もう『みずひき草の会』の旅行はない。妻の葬式の時に仲間3人が来てくれた、
涙が止まらなかった。旅行の写真が残っている。もう一度妻と一緒に弘前城の桜
見物に行けたら・・・
叶わないことであるが、今一番の望みである。
過日私と同じ妻を亡くした方と話す機会があった。その方は私よりもずっと年下で
奥様もずっと若く、幼少のお子様を残して旅立たれているから、悲しみ、無念さは
私以上で日常を取り戻すあるいは再構築するのに苦労されたと思う。
いや、本音のところではまだ日常が作れていないかもしれない。
一周忌を終え、年齢が相当いっている私さえこれからの日常が作りきれないでいる。
まだ若く、お子様の養育を考えなければならない境遇なら、もっと難しいと思って
しまう。
夢の話になった。
亡妻の夢を見るか?二人とも全く見ないということで一致した。
彼は父親はよく夢に出てくるが、妻は出てきてくれないと言った。
私の方も、妹や亡妻の姪は、『俊さんが夢に出てきた。』とよく報告をくれるが
私には出てきてくれない。
夢でも会いたいという心境だが、一度も出てきてくれない。
浅田次郎の小説、『鉄道員』で幼くして亡くした子供が成長の年代にあわせて、
亡霊となって鉄道員の前に出てくる場面がある。
主人公の鉄道員にとって子供を失ったことがずっと心残りで、後悔を残し、それが
夢の世界で小学校、中学校、高校と成長の姿を父親の前に出現させた。
父親は夢と現実の区別のつかない世界で、その出会いを感激しながら、味わった。
全て、父親の夢想の世界の出来事である。
この小説を読んだとき、それほど感激はしなかった。
高倉健がこの小説を映画化し、映像ではそれなりに感激、感動したが、ただ夢想の
世界の出来事なので、涙が出るほどではなかった。
むしろ、同じ本に収録されていた『ラブレター』という小編の方が感動的であった。
妻を亡くした今、この小説、この映画を見ると涙が止まらないと思う。
最愛の人を失った人の感情は経験した人でないと分からないと思う。
昔は、他人の死は、他人事だった。最愛の人を失った今は、戦争でも災害でも病気
でも亡くなった人に対して、身内であろうとなかろうと『自分事(じぶんごと)』
として考えるようになった。
人の死の残念さ、残された家族の辛さが痛いほどわかる。
持って生まれた寿命の長さは分からないが、とにかく元気で長生きしてほしいと
思う。
殺しあう戦争などもってのほかだと憤りを覚える。
小説では主人公の鉄道員は亡くなる。亡くなる寸前に愛しい人が夢枕に出てくる。
成長の姿を変えながら、父である鉄道員の前に。
私の時はどのような姿で現れてくれるのか。息を引き取る寸前に夢の中に出てくる。
まるで迎えに来るように。
若い奥様を亡くした彼との会話の中で、このように思った。
多分彼も私と同じように思ったのではなかろうか。