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安定した経営と確かな家づくりを続け、
快適な住まいを提供いたします。
妻と私の馴れ初め(なれそめ)のキッカケ仕掛け人が母じゃないかとの確信に似た
推測が出来上がって、母とのことをよく思い出すようになった。
母が妻を気に入ったのは勿論であるが、私が松山以外の他府県の人と結婚すると
松山に帰らない懸念もあったと妹が言っていた。
色々な出来事を偶然の重なりのように思っていたが、人生の必然のように動いて
いたんだと今になって感じる。
母は大正8年(1917年)生まれで、平成16年(2004年)86歳で亡くなった。
今生きていれば108歳である。
父とは3歳違いである。父が20歳頃結婚したというから17歳の花嫁だったんだろう。
お互いに会ったこともなく、親が決めた縁談だったらしい。
父の母が一度観察的に母に会い、母も分からぬまま縁談が進行し、結婚に至った
ようである。
父はその頃大学生だったというから、お互い親の意向に沿っていただけで、自分の
思いとか意見を言えなかったのであろう。
父の母は、松山で『いのじ(字体不詳)』という料亭を経営していた。
当時大学にいける人はごく少数で、父の言を借りれば、同学年で大学に進学したのは
二人だけだったらしい。東京での生活費、学費を出せる家庭など少ない時代であった。
たぶん経営は順調で繁栄していたのであろう。父の母としては、自分の店の後継者、
今でいえば若女将として母が欲しかったのではなかろうか。
たぶん父の妻としての適格性より商人としての母の性格を見抜き、料亭を切り盛り
する若女将として期待したように思える。
私の兄が誕生するまでの約10年ほど、父の母から料亭の経営を叩き込まれたのでは
なかろうか。
母は父の母を社会人になってからの恩師として尊敬して暮らしていたと思う。
第二次大戦が終わり、焼け出され、母方の実家の側にある家を借り、戦争から帰還
した父は地方公務員に就職し、親子6人の慎ましい生活がずっと続くことになる。
後年、父の母は脳卒中を患い、大変な看病を母がするのであるが、一言の泣き言
恨み言を聞いたことがない。献身的に看病する母の記憶しかない。
私達子供からすると母に苦労を掛けさせる父の母を邪魔者扱にしたくなる事さえ
あった。
母は自分の苦労を病人に当たることもなく、本当に実の親のように面倒を看た。
今から思ってもあのような看病は誰にもできない、それを苦にしたりする言葉を
一言も口に出さなかった母を誇りに思い尊敬している。